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(下記、アニメCLANNAD、アフターストーリーの結末までのねたばれを含みます。また、フランク・キャプラの「素晴しき哉、人生!」の結末のことも書くので、その2作品を最後までみていないのならば、どうか下の文を読まず先に作品を鑑賞していただけたら嬉しいです。)
今年の夏は完全にAIRの夏だった。友人のツイートからkey作品には興味が出て(村上春樹作品から影響を受けたらしいし)とりあえずiPhoneのアプリが買えたのでそこからプレイをし始め・・仕事で一人配達する間でふとiPhoneのスピーカーからサウンドトラックをきいていたり・・というか何度AIRの音楽を聴いたことだろうか。難回な結末もそうだったけど、一夏の出会いから千年前からの輪廻が続いていたり、そういう背景の表で母と子の痛烈なドラマがあったりして、そこから抜け出せない自分がいた。
そして気がついたら9月になってしまった。次の作品は冬にKanonをとっておく事にして(前述の友人からBlu-rayを借りて)CLANNADのアニメを見始めてしまった。他のアニメや録画してるあまちゃんを放置して、とにかく止まらなかった。一週間もかからずに、後日談なども含めて、今日アフターストーリーの最後まで見終わった。
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正直、半ば理性的に見ていられなかった。
特に、主人公が進路に迷いつつ加速度的に高校三年の冬が過ぎ、卒業し、否応無く社会に出なくてはいかなくなってからの話の生々しさ。
アニメ作品に沢山描かれる高校生活という特異性が、この話から崩れていった。社会人として仕事がみつからない、一時的なパン屋での早朝の労働、そして電気工事の会社の扉を開き、仕事がきつくて夕食もうつらうつらしてしまってまともに食べられなかったり、安い物件を探してアパートに入り・・・といった話が、これまでの高校生活って閉じられた世界から急に、町の中で前に進まなくてはいけない。それがどれだけ自分と重ねてしまったんだろう。
CLANNADアフターストーリーの、特に卒業が決まって仕事を初め家や仕事探して独立して、初めてのひとり暮らしの朝だとか、職場というおはようございますと声を出して新しい世界に踏み込んだりという、何でもないドラマひとつひとつが自分のついこの間の歩みと重なってみえて正直理性的に見れなか
— KÓLSSTRAINS (@colstrains002) September 8, 2013
ったです。渚の卒業の話までなんとかみたんですけど、自分も大学を震災の年にドジ踏んで一年留年して誰も知らない人しかいない中で、五年通って卒業した身だから、高校生のそれとは大分趣が違うけれども兎に角いい意味で見ててつらい・・新しい職場が決まった挙句のトラブルや休日出勤の話とかああ・・Twitter引用
— KÓLSSTRAINS (@colstrains002) September 8, 2013
そしてそうした中で、彼女として、そして妻として、もうすぐ母として、渚が側にいる生活。他の友人達よりも先に人生を歩んでしまっていて、幸せを膨らましているそんな生活・・
なのに・・
これ以上物語について書いてしまってもしょうがないけれども、出産という喜びの頂点から、死去という絶望への雪崩込み・・・そこからの絶望的な描写には、アニメなのに心底腹がたってしょうがなかった。これまで築いた人間の尊厳みたいなものがこうも脆く崩れるもんなのだろうかと。5年間も、あれだけ守ると誓った渚の娘を放棄したのは・・・。
娘との再会。旅。そして父としての自覚と、もはや親じゃないと切り捨てた父親の、幼いころの自分の父親のみえてしまった過去と面影・・・
(気がついたら自分は、なんて親父と同じ道を歩んでいるんだろうと、自分は思ったりする。ひとり暮らしの団地の部屋にあふれるレコードなんて、中学の頃は想像もしていなかっただろなと思う。)
父として、娘を育てようと決心して改心した後の久しぶりのほんわかとした描写の後の「悲劇」
・・・
僕が生涯で1番好きな映画だと思っている、フランク・キャプラの「素晴しき哉、人生!」という作品がある。町山智浩も時たま取り上げたりする。ひねることもせずに真っ直ぐに人間を描く監督だからこそ、中々評価されなかったり古臭いって言われてしまうのかもしれないけれども、僕はどれだけ彼の作品に胸ぐら掴まされ、号泣させられたのかわからない。
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「群衆」、「スミス、都へ行く」、「素晴しき哉、人生!」みんな、人々に理解されずに、あれだけ正面に向かって走り続けた主人公が目の前が真っ暗になり、そして・・・
結局ひとの幸福を最後には描く。自分が今そこにいる意味をしる。生きなくちゃいけないことを知る。それがどれだけ大変な事なことなのか。
「素晴しき哉、人生!」の主人公は夢があった。世界を渡り歩きたかった。小さな田舎町を出たかった。学生だった彼には何でもできると思っていた。けれども彼は、小さな町の中で戦う父親を継ぐことになってしまった。否応無く社会にでるしかなかった。小さな町の中で出会う恋があった。そうしたささやかな幸せの中で、弟も、友達も遠くへ行ってしまうなかで、町の中で彼は町の人々の為に不動産屋として働き、戦った。
幸せの絶頂、家族と迎えるクリスマスに弟が英雄として凱旋する日に、彼が不意に大きな挫折を経験してしまう。世界が突然色を失い、これまで築いた自分の人生の意味、これから生きている意味を全部見失う。
CLANNADの主人公と同じように。
「素晴しき哉、人生!」の主人公は、自分のいない世界を知る。
CLANNADの主人公は、妻を失い、育児放棄するも愛を取り戻した娘もまた、失う世界を経験する。
僕にはまだ、背負うべき責任を持っていない。だから色々と軽率なきもちしか持っていないのかもしれない。これまで養ってくれた親に何もできていない。守らなくてはいけない女性も、子どもたちもいない。ただいずれそういう存在を持たなくてはいけないんじゃないかと思う。そのためにこれまでの自分を捨てなくてはいけないのかもしれない。
人としてはそれができて初めて、大人っていえるのかもしれない。
自分も気がついたら色々な物を買ってしまい好き勝手な生活をしてはいる。時間を過ごしている。自分の浅はかさというものを、新卒で就職することを諦めた2011年3月の時に嫌というほど思い知らされたはずなのに、自分はまた少しどこか漂うような生活をしているのかもしれない。
うまく言葉にできないけれども、そうしたものを、愛情という責任を、背負う喜びを知りたいなと思った。