※結末までのネタバレを含みます。
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こちら「素晴らしき日々、というゲームについて。(ねたばれなし)」の記事の続き。自分の意見よりも、ちょっとまとめ記事みたいかもしれない。
1 The Who
僕がこのゲームをやっていて思ったことは、オルタナティブバンドというよりかは、60-70年代の英国ロックバンド「The Who」の事だった。
最初はギターを床に叩きつけたり燃やしたりステージを破壊するようなパンク的な衝動をロックで表現する先駆け的なバンドだったThe Whoだが、69年に発表した「ロックオペラ」アルバムである「Tommy」、更に大規模なロックオペラプロジェクトの未完のの果てにこぼれ落ちた「Who's Next」、そして「Quadrophenia(四重人格)」というような作品を発表していく。それらの作詞作曲の大半を手がけたのが、ギタリストのピート・タウンゼントで、彼は本も執筆している。
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◯Tommyの物語(Wikipedia引用)
時は第一次世界大戦。イギリス軍のパイロットであるウォーカー大佐は戦闘中に行方不明となり、戦死と報告される。ウォーカー夫人は悲報を聞き、失意の中息子のトミーを出産する。
4年後、ウォーカー大佐は生還を果たし帰宅するも、夫人の”浮気”(夫人は夫が生還すると思っていなかったので不実ではないが、結果として)を目撃し、情夫を殺害する(歌詞の中に実際に「殺した」という表現は出てこないが、後の詞の展開からして殺したと解釈していいだろう)。鏡越しにこれを目撃してしまったトミーに対し、両親は「あなたは何も見なかったし、何も聞いていなかった」(you didn't see it, didn't hear it)、そして「このことを一生誰にも話さないように」(You won't say nothing to no one ever in your life)と言い聞かせる。これがトラウマとなり、トミーは視覚・聴覚・発話障害を負ってしまう。
荒廃したトミーの潜在意識が、銀色に輝くガウンを着て金色のあご髭を生やした見知らぬ長身の男(He's dressed in a silver sparked glittering gown and his golden beard flows)として現れ、異常な精神世界への「すてきな旅行」を誘いかける。Sparks(スパークス)は、トミーが垣間見た精神世界を表現しているとされる。
両親は彼を治療するためにカルト教団の教会を訪れる。
子供達が楽しみにしているクリスマスの季節。両親は、今日が何の日か理解できないばかりか、神の存在も神に祈ることも知らない(Doesn't know who Jesus was or what praying is)トミーの境遇に嘆き悲しむ。「トミー、聞こえるかい?」と語りかける両親に対し、彼の内なる心がはじめて「僕を見て、僕を感じて(See me, feel me)」と語る。
外出する両親は従兄弟のケヴィンにトミーの子守を託す。二人きりになったところで、いじめっ子を自認するケヴィンは抵抗できない彼に対し執拗な虐待、拷問を加える。
トミーの両親は再度治療を試み、アシッド・クイーンを名乗るジプシーの元へトミーを連れて行く。彼女は幻覚性薬物を使って彼をドラッグ漬けにしてしまう。Underture(アンダーチュア)はトミーの見た幻覚を表現しているとされる。
両親は叔父のアーニーにトミーの子守を託す。異常性愛者のアーニーは抵抗できないトミーに性的虐待を加える。
トミーは突如ピンボールの才能を開花させる。彼は大会でチャンピオンを負かし、一躍”ピンボールの魔術師”と呼ばれるスターになる。人々は三重苦の青年が確実なプレイをすることに驚き、彼は突っ立ったまま機械と一体化し(He stands like a statue, becomes part of the machine)”匂い”でプレイしているのではないか(Plays by sense of smell)と訝しみながらも彼の奇蹟を賞賛する。
両親は彼を治療できるという医師を見つけ出す。病因を解明するために数多くの試験を試みた結果、医師は、彼の肉体は完全に健常で病因は精神性のものである(Needed to remove his inner block)と結論づける。彼の内なる心は再び「僕を見て、僕を感じて(See me, feel me)」と語りかける。
「トミー、聞こえるかい?」と熱心に呼びかけるものの、それに応えずただ鏡を見つめるだけの彼に業を煮やした母親は鏡を壊してしまう。
鏡を壊したはずみにトミーは寛解する。彼が完治したというニュースは一世を風靡し、導師のような立場に祭り上げられた彼は、教祖としてファン達を教化するようになる。
この曲のみ、トミーの熱心な信者の一人であるサリー・シンプソンを扱った挿話的なエピソード。彼女は聖職者の娘だったが家出してトミーの説教を聞きにやってくる。トミーに触れようと手を伸ばした彼女は警備員によりステージから投げ出され、顔に傷を負ってしまう。
トミーは治癒によって得られた自由を満喫し、説教を聞きに来た人々を教化しようとする。
トミーは自宅を教会として開放し、より多くの信者の獲得を命ずる。すぐに自宅が一杯になってしまったため、彼は誰でも参加できるホリデイ・キャンプを開設し、その運営を叔父のアーニーに託した。しかし、アーニーは信者を教化するというキャンプの目的を無視して私腹を肥やし始める。
トミーは信者達を境地へ導くために、飲酒や喫煙者を排斥し、目と口と耳をふさいた状態でピンボールをプレイするよう命じる。しかし、このような無茶な教義や彼の一族による搾取に反発した信者達は、「もう付いていけない、こんなことはもうご免だ(We're not gonna take it, Never did and never will)」と、彼に反旗を翻し、キャンプは崩壊する。何もかも失った彼の発する内なる声「僕を見て、僕を感じて(See me, feel me)」とともに物語は終わる。
引用:Wikipedia ザ・フー(バンド)/ 画像:アルバム「トミー」ブックレット
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%BC_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
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「四重人格」に関しては、モッズ族とロック族の乱闘、ジミーというモッズ青年が人格分裂した故の、衝動を超えて大人になれなかった青春の悲劇を描いてる。察しがいい方は、多重人格こそ「素晴らしき日々」の最大のトリックであるから、色々と連想出来ると思う。トミーも四重人格も映画化しているので、興味がある方は是非レンタルでも良いので観てみるのもいいかもしれない。(四重人格は「さらば青春の光」という名前)
僕は正直、10代に夢中になっていたのはビジュアルノベルゲームやアニメではなくて、もっぱら映画やロック音楽だった。特にThe Whoは20代後半の今になっても尚(音楽としてはあまり聴き返してないけれど)、部屋に巨大なポスターを張っている位、未だ自分の中の主要なバンドだったりする。
ビジュアルノベルゲームのアングラな黎明期に表現したかった電波系的・セカイ系的な表現もまた、元をたどると70年代から90年代末の(ドラッグと)ロックから産まれた色んな映画やSFやロックといったカルチャーで表現されたものの連なりではあるんだろう。ロックのカリスマがネットカルチャーのカリスマとなり、友人と繋がる方法も、自己表現方法も様変わりしているけれど、若者の狂乱の(そして結末の)根っこは同じようなものなんじゃないかなと思う。
2 必読の考察サイト
僕も結末までプレイした後に、色々な考察サイトを漁った。その中でのオススメのものをご紹介。
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個々のキャラクターについて丁寧に考察されています。作者のインタビューを所々で拾われているので、とても読みやすいです。
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検索しても中々でてこないのですが、この方の感想・考察が個人的に1番好きです。正直レビューページのようなところでこのような力作を書かれたのが勿体無いくらいです。特に、終ノ空Ⅱ〜序章、宮沢賢治とざくろの箇所に関しては頷く所ばかりでした。難しくなりがちな考察を、このような読みやすい文章で最後までまとめたのは素晴しいです。全てプリントアウトして、ゲームの箱の中に入れたいなと思ったくらいです。
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3 すば日々の立ち位置
サークル:こるすとれいんすとして、昨年のコミックマーケットにて頒布した「ポップカルチャーから紐解く2010年代の”郊外”」という同人誌に寄稿していただいた、スプラウト氏の「郊外の〝首都〟から〝森林文化都市〟まで~ガッチャマンクラウズの「立川」とヤマノススメの「飯能」~」というテクストに、次のような一文がある。
私たちはすでに、郊外の「閉塞感」について見聞きすることに飽きている。郊外を語ることが、ただちに「閉塞感」を語ることに直結するような思考パターンに慣れすぎている。まるで「閉塞感」こそが、郊外の「本質」や「普遍的」なものであるかのような言説が席捲している。
たとえば、多摩ニュータウンの風景を参照したとされるノベルゲーム『素晴らしき日々 ~不連続存在~』(2010年、ケロQ)には、以下のような印象的なセリフがある。
「この町並み・・・ここってさ・・・昔はニュータウンって言われてたんだぜ。俺が生まれる前だ。本当に大昔に作られた新しい街。俺たちが知る前からある新しい街。俺たちが生まれる前からあふれている新しいもの。新しさだけの世界。すべてが新しく・・・そして完成された世界」
これは、まさに「閉塞感」というキーワードをめぐって登場人物たちが交わす対話からの一部引用だが、そのことを郊外の情景に託して書かれた一文としては、至高のものの一つだろう。
おそらく、郊外と「閉塞感」が深く結びついていることは本当だろうし、今後もそのような詩が、小説が、郊外論が、共感をもって受け入れられていくのだろう。
ただし、「閉塞感」とは「閉じている」かのような「感覚」のことであるはずだ。「閉じている」かのような現状に「共感」してしまう、という話だ。
(スプラウト著「郊外の〝首都〟から〝森林文化都市〟まで~ガッチャマンクラウズの「立川」とヤマノススメの「飯能」~」「ポップカルチャーから紐解く2010年代の”郊外”」p63)
すば日々の物語舞台は、スプラウト氏が書かれたように、杉の宮・・・多摩ニュータウンが象徴するような、東京の郊外都市をイメージしているらしい。
(しかし一部はすでに景観が変わっている模様)
(2016年3月22日)
4 感想
時間が立ってしまって、何を書くつもりだったか忘れてしまったので簡単な感想を。(色々引用したけど収拾がつかなくなったので保留。ごめんなさい。)
・単純に後半のキャラのギャップ萌えする悠木皆守が主人公になって、脱「終ノ空」的な、世紀末的なセカイ系からの脱却を図る前向きな展開となって、純粋に面白い。反面、話が矮小化してしまった部分もあるのかもしれない。
・散々「終ノ空」的なテイスト全開の間宮卓司章で、おふざけの神様などの落書き描写でからかったり、また中二病世界で聖書的描写をつくるという、よくあるパターンの前半部分に対し、過去の村章で、山の中で死ぬ一寸前に偶然色々な話をする由紀姉の説話のなかで、妹が不憫な目に遭うこの世界には神様なんかいやしねえというガキンチョ時代の皆守君に対し、プロテスタント教会では有名な説話である「砂の上の足跡(FOOTPRINTS IN THE SAND)」の話を持ってきたという、表面的なキリスト教権威を剥ぎとった、ちゃんとした話をもってきて、神様とは何かという問いかけをしたのは、すごいなと思った。(そして調べたら、その説話について、ちゃんと作者が存在したという記事があったので紹介)
(追記)
・このゲームで1番ショッキングだったシーンは、最初の第一章の結末で、主人公由紀が、序章にてあんなにイチャイチャと家で楽しくやってた双子の女の子の片割れの鏡が<自粛>な姿となっている所を地下で見つけたという場面だった。その非現実ともいえる暴力に晒された亡骸を背負って、魂が抜けたように自宅へと買える最中に、由紀は一緒に歩く妹の司へ、過去の昔話をする。―昔飼っていた犬のジョンが死んでしまって、あまりに悲しくてそのジョンの魂を追っかけようと、坂道をいっしょうけんめい歩いて、超えられないと思っていた丘を抜けた。その先に魂はあると思ったのに、その先にあったのは、背後の町並みと何ら変わらない、平凡な風景があって、きっとその先にも、その先にもその風景があることを知ったとき、もうそこには世界の果てなんてものは無いんだって悟ってしまった―というような内容の回想だった。
・このゲームの残酷なところは、それだけ悲痛な描写をした次の章では、加害者側から、その鏡を集団で犯し、暴行をした挙句・・・という描写をいれる。自分は殆ど読まずに飛ばし飛ばしにすすめてしまったけれど、よくそこのシーンを読むと、人々の様子がどうもおかしく、不自然なことに気がつくのかもしれない。/そして鏡と司の実体が、実は忘れようと努めた挙句、人格が分離して、妹の事を双子の女の子であると誤認させることで自我を保つ、虚構の存在出会ったことが分かる終盤の章。犯され✕✕されてしまった鏡の実体は、妹がいつも手に持っていた、兄が作ってくれたとはいえ、ただの「ぬいぐるみ」だったという事。あんなに残虐極まりないシーンだった鏡の暴行シーンが、ぬいぐるみ相手に行われていた事だったという間抜けなシーンだったことを知る、そのイメージの裏返しにあることだろう。悲劇の裏側は喜劇であって、どんなに暴力的なこともまた然りだというのは、なんというか、色々と無情に思えてしまってならない。
・そして例の鏡を連れて帰るシーン、あれは現実には、由紀の魂で歩く間宮少年がぬいぐるみの亡骸を背負って歩き、その妹が連れたっているという。その話も、死んだのは犬ではなく、父親だったこと。その魂を追っていった話が、上記の話だったという。
・最初の章でのジョンの魂を追っかけたというシーンを読んだ時に、必然的に連想したのが、ビートルズ解散後、精神的に追い詰められていたジョンレノンがプライマル・スクリーム療法によって、父と母が離婚したという幼少期のトラウマを克服する最中に製作されたファーストアルバム、邦題はその名も「ジョンの魂」の事だった。
・郊外/都市/ノスタルジアとトラウマの昔の風景/自分の居場所はどこにあるのか。
(追記終)
・偶然だろうけれど、先日みたNHK「新・映像の世紀」最終回にて、これまで過去100年間の時代の象徴的な映像を散々集めた後に、最後に紹介した映像が、「LGBT」だってことでいじめられて自殺する数日前のジェイミー君の個人動画だった。
・このゲームで1番ショッキングだったシーンは、最初の第一章の結末で、主人公由紀が、序章にてあんなにイチャイチャと家で楽しくやってた双子の女の子の片割れの鏡が<自粛>な姿となっている所を地下で見つけたという場面だった。その非現実ともいえる暴力に晒された亡骸を背負って、魂が抜けたように自宅へと買える最中に、由紀は一緒に歩く妹の司へ、過去の昔話をする。―昔飼っていた犬のジョンが死んでしまって、あまりに悲しくてそのジョンの魂を追っかけようと、坂道をいっしょうけんめい歩いて、超えられないと思っていた丘を抜けた。その先に魂はあると思ったのに、その先にあったのは、背後の町並みと何ら変わらない、平凡な風景があって、きっとその先にも、その先にもその風景があることを知ったとき、もうそこには世界の果てなんてものは無いんだって悟ってしまった―というような内容の回想だった。
・このゲームの残酷なところは、それだけ悲痛な描写をした次の章では、加害者側から、その鏡を集団で犯し、暴行をした挙句・・・という描写をいれる。自分は殆ど読まずに飛ばし飛ばしにすすめてしまったけれど、よくそこのシーンを読むと、人々の様子がどうもおかしく、不自然なことに気がつくのかもしれない。/そして鏡と司の実体が、実は忘れようと努めた挙句、人格が分離して、妹の事を双子の女の子であると誤認させることで自我を保つ、虚構の存在出会ったことが分かる終盤の章。犯され✕✕されてしまった鏡の実体は、妹がいつも手に持っていた、兄が作ってくれたとはいえ、ただの「ぬいぐるみ」だったという事。あんなに残虐極まりないシーンだった鏡の暴行シーンが、ぬいぐるみ相手に行われていた事だったという間抜けなシーンだったことを知る、そのイメージの裏返しにあることだろう。悲劇の裏側は喜劇であって、どんなに暴力的なこともまた然りだというのは、なんというか、色々と無情に思えてしまってならない。
・そして例の鏡を連れて帰るシーン、あれは現実には、由紀の魂で歩く間宮少年がぬいぐるみの亡骸を背負って歩き、その妹が連れたっているという。その話も、死んだのは犬ではなく、父親だったこと。その魂を追っていった話が、上記の話だったという。
・最初の章でのジョンの魂を追っかけたというシーンを読んだ時に、必然的に連想したのが、ビートルズ解散後、精神的に追い詰められていたジョンレノンがプライマル・スクリーム療法によって、父と母が離婚したという幼少期のトラウマを克服する最中に製作されたファーストアルバム、邦題はその名も「ジョンの魂」の事だった。
(写真:ジョンレノン/ジョンの魂)
・郊外/都市/ノスタルジアとトラウマの昔の風景/自分の居場所はどこにあるのか。
(追記終)
・偶然だろうけれど、先日みたNHK「新・映像の世紀」最終回にて、これまで過去100年間の時代の象徴的な映像を散々集めた後に、最後に紹介した映像が、「LGBT」だってことでいじめられて自殺する数日前のジェイミー君の個人動画だった。
それをみて、自分は嫌でもすば日々で自殺したざくろと連想してしまった。彼女は彼のようにアイデンティティできっかけでいじめに合ったというわけではないのに、転がる石のように、気がつくといじめがエスカレートし、ドラッグとレイプによって心身ボロボロにされてしまう。そこで彼女は、言わば新興宗教的な女の子らと知り合って、自分は異世界から転生された救世主だ(ある意味では救世主君と似たような思想)と信じて、結果的にビルから飛び降りて、死のギリギリの体験をすることで世界を救済しようとした。・・とここまで書いて、現実のジェイミー君とはえらい違いに泣けるけど、でも結果的に自殺をするのには変わりがない。
(以下、番組を見た後でツイートした内容だが)自殺という意味で番組をみて連想したのが、フランク・キャプラの映画で「群衆」というのがある。英語タイトルは「ジョン・ドー(名無し)に会う」の意味。新聞社は「社会に絶望するから自殺する」という手紙が届いた事を捏造し、結果的にそこから架空の名無しってキャラクターを産み、社会現象になるけれど、自立したメディアに潰され本当に名無しは自殺を実現させようとしてしまう。一個人の小さな動きが社会全体を動かし、世論を良い方にも悪い方にも扇動させるトリガーが、この「群衆」という映画以上にリアルになったのが、まさに21世紀の今なんだろう。同性愛、宗教、政治意識な自分=アイデンティティは、他者の映像によるものなのか。
(写真:フランク・キャプラ監督作 映画「群衆」)
話の柱が、ざくろの死から、間宮羽咲殺害未遂(由紀姉の死)へと変わってしまった違和感はあった。本筋も、結局ざくろに関する追求は希薄だった。終章=序章によって神秘的にちゃんと描写したことで納得した節はあるが・・
・この物語の結末については、恐らくウィトゲンシュタインの論考から解釈するような方法よりも、序章の結末でまんま引用される、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(の第三次稿)などの物語や詩から、キャラクターが考える幸福な人生というものを、自分の人生に置き換えて、生や死についてちょっと考えるきっかけとなれば良い気がする。
呼吸のやうに月光はまた明るくなり雲の遷色とダムを超える水の音わたしの帽子の静寂と風の塊いまくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのびレールとみちの粘土の可塑性
月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろになつてゐる
宮沢賢治『春と修 - 羅風の偏倚』
・考えてみれば、シラノ・ド・ベルジュラックのシラノさんも、表面的な部分では悲劇であった(結局想い人は自分ではなくて、クリスチャンというアホボンが好きだった)生涯でも、内面では勝利であったのかもしれない(一応最後はその想い人の本当の心の中、それがシラノだったという事に気がついたって描写はあるけど)。シラノの思いの先に「月へいく」という空想もあって、あの最期のセリフがとても前向きで泣けるのだ。そしてその物語が、戯曲ではない本物のシラノ・ド・ベルジュラック氏によるSF『月と太陽諸国の滑稽譚』って本が書かれて、ざくろちゃんも「ホントに書かれたんだ・・」って感嘆するシーンも(序章という結末章に)しっかりと描写されてる。上で引用した詩もまた、宮沢賢治の宇宙感を表した詩であるとも言われている。「すば日々」をきっかけとし、どれだけ豊潤な文学や詩の世界にいくことができるのか、そのことが大切だと僕は思っている。