火曜日, 9月 16, 2014

十代中頃への逃避行、海辺のカフカの話と、八ツ場ダムに沈む前の川原湯温泉の風景写真。



突発的に、何かのスイッチが入ってしまって、僕は自分の十代半ばの頃に無我夢中で走っているさなかに手にしていた音楽や小説を読みたくなってしまった。きっかけは十三年前の九月十一日の出来事であったり、今年のその翌日に突然発表になったU2の新作であったりしたりして、思いつきで当時聴いていた音楽のプレイリストを作って行くうちに、段々と、あの時の切羽詰まった、こっぱずかしい物をまた強く掴みたくなってしまった。仕事も連日残業をするようになったし、楽しかった夏も過ぎ去って空虚な季節の狭間で、自分を少しだけ見失いそうになっていたというのもある。



だから、2000年前後のレディオヘッドやコールドプレイ、CDを買いはじめたばかりの頃に何度も聴いたサジェントペパーやホワイトアルバム、ボブディラン、ペットサウンズなんかをiPhoneにつめて(本当はパナソニックのポータブルCDプレーヤーが良かったけれども)、村上春樹の海辺のカフカを持って、週末に旅行へいった。家を出るまで乗り続けた高崎線を、1度も先まで下った事がないことを思い出し、ついでという感じで八ッ場ダムに沈んでしまう前の川原湯温泉へ向かうことにした。



昼過ぎに家を出たために高崎に着いたのは日が暮れる頃で、そこで当時のバイト先だった電器屋の本店で赤いヘッドフォンを買って、すぐ見つかると思っていたホテルがどこも満室で、焦ってきた差中に大雨になって、最後は駅前にあるビルの、高めのホテルにチェックインをした。



移動の差中に音楽を聴きながらこんこんと、海辺のカフカを読んだ。読み返すのは数年ぶりだけれども、改めて読み返すと、村上春樹の作品の中でも特に、主張性の強い物語だったんだなと驚いた。感受性がよかったというより、精神的に飢えていた十代半ばの僕は、授業中の机の下かなんかで貪るようにこの本(など)を読んでいて成績も右肩下がりとなって、成績会議にかけられたり、親やバイト先や家庭教師かなんかの人間関係もきりきりしたり、学校とは別の自分の居場所を必死に作ろうとしていたり、兎に角ハードな頃だった。だからか生き方や考え方や、そういう主柱となる部分を、今思うと、だいぶ村上春樹によって形作られてしまったんだなと思う。



タイミング的に当時のロックを聞き返す前にグレングールドのCDをこれまたまとめて衝動買いしてしまった。旅行からもどり、祝日出勤をしてゆるゆると現実に戻る中で、本の終盤はグールドのベートーベンやバッハを聴きながら、海辺のカフカを読み終えた。この本を読んでいると、否応もなく自分の考え方わ相対的に肯定させられてしまう(良くも悪くも)。そして生活もまた別のベクトルにのせて、穏やかさを思い出すことができる。



そういう書き方を彼は、自分の頑固なまでの生真面目な正しい生活リズムのライフスタイルを貫いて、丁寧でドラマのない反復と、唐突に引きずり落とされる暴力と、飛び越えるように訪れる深淵や霊的や虚空な世界と、そこから目覚めて戻るどうということもない日常を、はっきりとしたエゴイズムを持って、自然と描き切っていて、その価値観に、兎に角、惹きつけられる。




今聴いているグールドの反復するバッハも、偏屈だけど自然な音の連なりも、どこか似通ってる。

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