土曜日, 4月 09, 2016

ありがとう「たまゆら~卒業写真~」


ーーいつもカメラを持っていた、大好きな父との死別。その頃の思い出の街の竹原へも戻るのが怖かった。泣かずに父の話もできなかった。そんな中、高校生になって、竹原の街へ帰ってきた。父の形見である小さなカメラを手に持って、写真を始めた。ーー

そんな高校生活を描いたのが、OVA、テレビシリーズとして続いていったアニメ作品「たまゆら」シリーズ。

桜の咲く去年の春、(Tokyo MXではSHIROBAKO放送の前に)放送していた、たまゆらセレクションの放送後、劇場版「たまゆら 〜卒業写真〜」四部作の上映が始まったのだ。

現実の季節が巡るのと合わせる様に、シリーズも主人公ら四人の女の子の進路の悩みを一人づつ取り上げながら、春、夏、秋、冬と物語が描かれていった。僕は、最初の2作はmovixさいたまにて初日で観に行き、秋からは川崎へ引っ越したので、新宿ピカデリーへ行って観に行った。

このシリーズでの劇場版での放映形態は、映画館へ3ヶ月に一度向かうというイベント感をつくるのが、とてもうまかった。上映期間を2週間に絞り、入場特典にイラスト複製色紙などを配布し、公開日と同日には同じ内容のブルーレイも発売。しかも劇場で購入すると劇場限定版という形。(第一部のときは、全四巻入るボックスまで付属していた!)

また、たまゆらグッツも売店に展開。映画を観終わった後、グッツ売り場に出来ている列をみたら、普段アニメグッツをそこまで買わない僕も、つい列に並んでしまう。(写真:初回特典の色紙とももねこ様グッツ)



今日観た第4部では、第1週では色紙、そして第2部では「卒業証書」が入場特典とされた。(これまでシリーズを追ったファンへのずるすぎるファングッツ) しかも、売店にはその卒業証書が入る「つつ」と、卒業式の写真を模したイラストカードがセットで売られているではないか。



また、今回はブルーレイとは別に、OVAからのたまゆらで使用されたOPやEDの楽曲が全て収録されたベストアルバムも同日発売され、劇場で購入すると、ミニイラスト色紙が付くという。最初の週は旅行にいっていたので映画館へいくことができず(旅行先の映画館へも寄ったりしたけどCDは売り切れだった)諦めていたんだけれど、今日上映前にできていたグッツ前の行列に並んだら、CDも再販(特典付)されていて、めでたく購入することができた(劇場を出てふと売店をみたら、すでに再販のCDが完売されていた)。荒井由実の名曲から、数々の「いい曲」が詰まった一枚。



土曜日の最初の上映回を観るために早起きをして、帰り道の空いた電車、普段観ることができない午前中の小さな景色、穏やかなきもちで食べる朝ごはん、そういった体験も、たまゆらを観に行く事でできた。今日はとても、桜吹雪が綺麗だった。




――シリーズを通しての内容について。

たまゆらは、今回の「第4部 朝 -あした-」によって完結した。そこに至るまでの一貫したテーマは、楓の父の喪失からの回復だ。もう一度父の影がある、竹原の街へ帰ること、カメラローライを手にすることを通して、楓は死の影からようやく顔を上げることができた。

竹原での体験の最中、様々な父の面影と出会う。そこにあったのは悲しみだけではない、楓の知らなかった、父の”見ていた世界”との邂逅があった。

テレビシリーズでは、そのひとつひとつを丁寧に拾い上げていった。そして最初は過剰におどおどしていた楓も、いつの間にか自発的に何かを行うようになっていくように「変化」していったことを描いていった。その手にはいつも、父のローライがあったのだ。

劇場版では、大人になる事、変わっていくこと、そういう移りゆく時の一時で、わくわくする日々ではあるけれど、唐突に戸惑って迷ってしまう、そんな高校三年の一年間を描かれた。第3部の竹原のまつりでの最中、ローライが不調となる。それはただの機械の故障じゃない。物事の変化の象徴の用に思えてしまって、楓は「不意に」自分の居場所が見失ってしまう。

楓は、死の影から顔を上げ、他と上がる事ができた。それでもまだ、彼女はそこから降り立つ事ができていなかったのだ。それを描いたのが、第4部だった。そこをしっかりと描いたのが、第4部だったといってもいいんじゃないだろうか。

多分、あのローライは、楓を独り立ちさせるため、この世に留まってしまった亡き父の亡霊だったのだと思う。新しい道へ、父はカメラとなって楓を導いた。そして人と人を繋いでいった。気が付くと、楓は父の話をする時に、下を向いて涙をながす事なく、前を向いているようになった。ようやく、父の死を本当の意味で乗り越える事ができた。父の知らない新しい景色を、楓はみるようになった。

(ねたばれのため、伏せ字にしています。反転で読むことができます)
だから最後に、あのローライはこわれてしまったのだ。いや、こわれるのは必然だった。(だから”不思議なタイミングで”別のカメラが贈られたのだろう)学校の卒業という意味よりも、父からの卒業、それを「たまゆら 〜卒業写真〜」では描いた。だから最後の第4部で、僕らは父の面影を懐って涙を流す必要がなくなったのだ。
(伏せ字おわり)

多分、劇場作品としては稚拙な部分はあった(テレビシリーズと完成度のような見方をすると、大差ない)。けれども、とても誠実で、愛情あふれたシリーズだった。移りゆく時間を、気が付くと無意識にただ過ごしている、大人になってしまった僕らが、もう一度その変わりゆく時という意味を見出させてくれた、そんな稀有あるシリーズだった。

これまで本当に、ありがとうございました。


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