火曜日, 11月 12, 2013

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 雑記

仕事帰りに叛逆の物語の2度めの鑑賞してきました。

初めて見に行った時は、公開3日目の朝で、ちょうど中学生女の子グループが前に座って、上映中も色々おしゃべりしていたんですが、映画館という中で・・

10代の思春期で自意識が不安定になる女の子が、自己模索のきっかけになる「体験」として、まどかマギカがもし成したとしたら、それこそ本当の意味でのファンタジーともいえるんじゃないかと感慨深くなった。

大概が20代のアニメおたくの男ばかりで、やたら理屈で討論しがちではあるけれども、東欧アニメ的な手法を取り入れた、感覚ビジュアルにストレートにぶつけてくる、映像快楽っていうのは、余計な深読みをしなくても、劇中の主人公と同世代の女の子ならこそ・・なんじゃないかと思う。


中二病の源流なのかわからないけれど、エヴァンゲリオンの碇シンジは中学2年生で、まどかマギカの鹿目まどかや暁美ほむらも中学2年生。同じ自己模索をするにしても、方や人との関係を否定して内に籠もり、方や人との関係を求めるがあまりに突っ走り、共に小さな自分の世界と、全世界や宇宙といった話を重ねあわせ、宗教的ないしは神話的な結末に至ってしまう。

一時期そういう物語がセカイ系ということで揶揄されたのかもしれない。ただエヴァが聖書やらの話の一部をインテリ的に話の部品に取り入れた世界観、ビジュアルもという凄く青年的描写なのに対して、まどマギは一見美少女的なキャラクターとタイトルで開けた窓口と、中身と出口とのギャップがーー


あーこういうエヴァとの比較とか別にどうでもいいんです。

いわゆる、エヴァンゲリオン以後、飛び抜けたアニメ作品がなかったと思っていた節もある中で、ようやくこの作品はその地位を獲得できたんじゃないかと思う。これだけ深夜アニメという枠ができてアニメが量産され一つの文化や価値観をつくっているのに、これまで頭ひとつでた作品が中々なかったのは・・作画やキャラクター表現が素晴らしい京都アニメーションの話題・代表作の涼宮ハルヒの憂鬱、個性的な表現方法が素晴らしいシャフトの諸作品だとかあったのに、なかったわけなんです。



うまく話をまとめられないながらも、視聴者にネタバレしちゃいけないと思って一生懸命話をするおぎやはぎのラジオのなかのやはぎが面白くてしょうがないなかで、最後のほうで偶然にも、話の例のなかにデビルマンがでてきた。新房監督の基本になった漫画であり、町山智浩のダークナイト論時のラジオでも、基礎知識としてのダンテの神曲と一緒に、ダークヒーローとしてのデビルマンの神話性を話した(必聴)

  

個人的な心情からすると、まどかマギカにおける全能の神や救済の概念の事、犠牲というにはあまりにも痛みが伴ってないんじゃないかという事もあるし、神曲の悪魔に対しても、完璧な世界における必要な不自然性、叛逆へのあこがれというのは、分かるんだけどそれだけが格好いいことだという価値観はどうしても違うと思うから、そういう部分も込めて全面的にまどマギに共感できないんだけど、だけど面白くて惹きつけられてしまうのは悔しいけれど事実。


デビルマンは読もうと思う。


火曜日, 9月 10, 2013

It's a Wonderful Life... CLANNAD鑑賞記





(下記、アニメCLANNAD、アフターストーリーの結末までのねたばれを含みます。また、フランク・キャプラの「素晴しき哉、人生!」の結末のことも書くので、その2作品を最後までみていないのならば、どうか下の文を読まず先に作品を鑑賞していただけたら嬉しいです。)





今年の夏は完全にAIRの夏だった。友人のツイートからkey作品には興味が出て(村上春樹作品から影響を受けたらしいし)とりあえずiPhoneのアプリが買えたのでそこからプレイをし始め・・仕事で一人配達する間でふとiPhoneのスピーカーからサウンドトラックをきいていたり・・というか何度AIRの音楽を聴いたことだろうか。難回な結末もそうだったけど、一夏の出会いから千年前からの輪廻が続いていたり、そういう背景の表で母と子の痛烈なドラマがあったりして、そこから抜け出せない自分がいた。

そして気がついたら9月になってしまった。次の作品は冬にKanonをとっておく事にして(前述の友人からBlu-rayを借りて)CLANNADのアニメを見始めてしまった。他のアニメや録画してるあまちゃんを放置して、とにかく止まらなかった。一週間もかからずに、後日談なども含めて、今日アフターストーリーの最後まで見終わった。






正直、半ば理性的に見ていられなかった。


特に、主人公が進路に迷いつつ加速度的に高校三年の冬が過ぎ、卒業し、否応無く社会に出なくてはいかなくなってからの話の生々しさ。

アニメ作品に沢山描かれる高校生活という特異性が、この話から崩れていった。社会人として仕事がみつからない、一時的なパン屋での早朝の労働、そして電気工事の会社の扉を開き、仕事がきつくて夕食もうつらうつらしてしまってまともに食べられなかったり、安い物件を探してアパートに入り・・・といった話が、これまでの高校生活って閉じられた世界から急に、町の中で前に進まなくてはいけない。それがどれだけ自分と重ねてしまったんだろう。


Twitter引用

そしてそうした中で、彼女として、そして妻として、もうすぐ母として、渚が側にいる生活。他の友人達よりも先に人生を歩んでしまっていて、幸せを膨らましているそんな生活・・

なのに・・



これ以上物語について書いてしまってもしょうがないけれども、出産という喜びの頂点から、死去という絶望への雪崩込み・・・そこからの絶望的な描写には、アニメなのに心底腹がたってしょうがなかった。これまで築いた人間の尊厳みたいなものがこうも脆く崩れるもんなのだろうかと。5年間も、あれだけ守ると誓った渚の娘を放棄したのは・・・。



娘との再会。旅。そして父としての自覚と、もはや親じゃないと切り捨てた父親の、幼いころの自分の父親のみえてしまった過去と面影・・・

(気がついたら自分は、なんて親父と同じ道を歩んでいるんだろうと、自分は思ったりする。ひとり暮らしの団地の部屋にあふれるレコードなんて、中学の頃は想像もしていなかっただろなと思う。)


父として、娘を育てようと決心して改心した後の久しぶりのほんわかとした描写の後の「悲劇」


・・・


僕が生涯で1番好きな映画だと思っている、フランク・キャプラの「素晴しき哉、人生!」という作品がある。町山智浩も時たま取り上げたりする。ひねることもせずに真っ直ぐに人間を描く監督だからこそ、中々評価されなかったり古臭いって言われてしまうのかもしれないけれども、僕はどれだけ彼の作品に胸ぐら掴まされ、号泣させられたのかわからない。



「群衆」、「スミス、都へ行く」、「素晴しき哉、人生!」みんな、人々に理解されずに、あれだけ正面に向かって走り続けた主人公が目の前が真っ暗になり、そして・・・



結局ひとの幸福を最後には描く。自分が今そこにいる意味をしる。生きなくちゃいけないことを知る。それがどれだけ大変な事なことなのか。


「素晴しき哉、人生!」の主人公は夢があった。世界を渡り歩きたかった。小さな田舎町を出たかった。学生だった彼には何でもできると思っていた。けれども彼は、小さな町の中で戦う父親を継ぐことになってしまった。否応無く社会にでるしかなかった。小さな町の中で出会う恋があった。そうしたささやかな幸せの中で、弟も、友達も遠くへ行ってしまうなかで、町の中で彼は町の人々の為に不動産屋として働き、戦った。

幸せの絶頂、家族と迎えるクリスマスに弟が英雄として凱旋する日に、彼が不意に大きな挫折を経験してしまう。世界が突然色を失い、これまで築いた自分の人生の意味、これから生きている意味を全部見失う。


CLANNADの主人公と同じように。


「素晴しき哉、人生!」の主人公は、自分のいない世界を知る。

CLANNADの主人公は、妻を失い、育児放棄するも愛を取り戻した娘もまた、失う世界を経験する。


僕にはまだ、背負うべき責任を持っていない。だから色々と軽率なきもちしか持っていないのかもしれない。これまで養ってくれた親に何もできていない。守らなくてはいけない女性も、子どもたちもいない。ただいずれそういう存在を持たなくてはいけないんじゃないかと思う。そのためにこれまでの自分を捨てなくてはいけないのかもしれない。

人としてはそれができて初めて、大人っていえるのかもしれない。

自分も気がついたら色々な物を買ってしまい好き勝手な生活をしてはいる。時間を過ごしている。自分の浅はかさというものを、新卒で就職することを諦めた2011年3月の時に嫌というほど思い知らされたはずなのに、自分はまた少しどこか漂うような生活をしているのかもしれない。

うまく言葉にできないけれども、そうしたものを、愛情という責任を、背負う喜びを知りたいなと思った。


土曜日, 8月 17, 2013

歳超えの夜にいわきの事や夏のことをつらつらと。



(Theo Parrish - Parallel DimensionsのレコードのC面を聴きながら(YouTube↓)、明日某試合の日の仕事だけど25歳になるので折角だからこの夏にやったことだとか思ったことだとかをまとめてみようかなと思います。)





「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
創世記4:6-7 (アダムの最初の二人の子どものうちの兄貴が弟に嫉妬しての諭されているシーン。その後すぐ兄貴は嫉妬に流されるまま弟を殺すわけだけど。)


リアルタイムでちょうど今、カイロで内戦が起こっている。



この夏はDOMMUNEZEROという日本のウッドストックに行け、三宅洋平と選挙をリアルに体験して、Mumford & Sonsがマイクを切って歌ってくれ最後には涙まで流して一緒に泣いてしまって、腹痛と風邪も夏と共に治って、風立ちぬを初日で見に行って荒井由実のひこうき雲をギターで練習したりして、Twitterで知り合った友達と交換した夏のプレイリストをちょこちょこ聴いてそのことで夜中に電話したりして、10年近く通ってる教会の夏の旅行に福島にいくってことで金を後払いにしてついていって、復興した福島第一聖書バプテスト教会の事をしって、あまりにもお金がないのでいい加減家計簿つけなければと思いメモ程度で初め、NHKのあまちゃんにハマり、KeyのAIRに逃避し、一時期夏影や鳥の詩を何度も聴き続け、お盆にもらった三連休もちょこっと夜だけ実家に帰り映画立候補をみて渋谷で買い物したりしただけで、終戦記念日を超えて誕生日に。




A 8月5日、最初の目的地に向かっている中で僕はイアフォンで音楽を聴きながら村上春樹のインタビューの文庫を読んでいた最中少しぼおっとしていた中、不意に後ろで「あ、流された後の・・・」という声が聞こえた。慌てて横を見て2年前にテレビでみてた光景が、大波で流された後の、何もない光景が、目の前に広がっていた。慌てて写真を取ろうとした自分は正直最初は興奮していた。バスが停まることになり、急いで降りていった。






次第に、絶句した。骨組みだけを残した家が続いていた。もうあれから2年近くたつのに、ここはまるで、墓場のように、骨格がさらけ出していた。無心でふらふらと歩いた。足元では確かな生活の営みがあったはずなのに、遠くの海岸では夏真っ盛りの海水浴場であるはずなのに、また突然こわくなってしまった。足元には一体なにがあるんだろうと情けないことに。一体ここでどれだけの人が命を落としてしまったのだろう。どれだけの生活を失わせてしまったのだろう。どれだけの家族を引き裂いてしまったんだろうとぶわっと色々。正直、部外者である意味観光人である自分がそんなところにいる資格なんてないし、いるべきじゃないし、ただただ情けなくなったのかもしれない。

バスが止まっていたのは10分もなかったのかもしれない。ただうつむいてバスに乗って、また動き出して、廃墟の景色が続いていって、こっそりと嗚咽せざるをえなかった。ボランティアをするでもない、現実の人々のぶつかりの最中も何も経験していない、原発の惨状も目の辺りにはしなかったし、その後は苦労して苦労してやっと復興した2件の教会を巡ったわけだったけれど、あの10分そこらの体験は・・





(動画でみても大したものうつってないし大げさだなとは思うだろうけどあの時は本当にそんな気持ちでした。)

水曜日, 7月 17, 2013

ふらり、FREEDOMMUNE 0 <ZERO> ONE THOUSAND 2013。








偶然お休みがとれたので、土曜の夕方に家を出て、幕張メッセへ向かいました。

DOMMUNEとは・・

そのフェス版ともいえる「FREDOMMUNE0<ZERO>2013 は」(被災地支援の為の)入場無料オールナイトの音楽フェス。FUJI ROCKやサマーソニックと何が違うのか、その理念やらが
にあるので、是非一読ください。(行く前に出てた記事だけど読まなかった)
商業的というよりカルチャー的な理念が、現代のウッドストックの正当な後継イベントといえるのは確かなんじゃないかと思います。

 

最初ににみたのがBOREDOMS7x13BOADRUM

 
BOREDOMS presents 7×13 BOA DRUM - FREEDOMMUNE 0... 投稿者 puqis 


ボアダムズとは、Vision Creation Newsun [2001]やSuper Are [1998]が代表作の、1986年結成の大阪出身の有名なオルタナティブバンドです。

   




続いて、Twitterで知り合った方と屋台のところで飲みながら、仕事の話とか音楽の話とか色々話せて楽しかったです。 こういう出会いの場がもてるのって、ボッチでインディバンドのライブにいってもそうそうないのです。 




次は、国民的NHK朝ドラマ「あまちゃん」の音楽を手がける、大友良英&あまちゃんスペシャルビッグバンドを見ました。 ド深夜の音楽フェスで、おじいちゃんおばあちゃんも家の母親もみんな知っているこのテーマソングに拳を上げる光景。やばいです。

   

でも、元々はガチガチ尖ったのニューウェーブバンドの人なんです。

   


大盛り上がりのなか、人をかき分けかき分け、一人になって三宅洋平をみにいく。

   

政治理念はどうであれ、彼の熱や歌には心うたれる。個人的にフリードミューンで1番良かったし、今年の春政治活動で再注目される前、仕事の運転中に本当に偶然にラジオから流れたTokyo timesにはもう、どうしようもない気持ちになったんです。

   


彼が終わって少し周りを歩いてまた戻ってきて、非常階段×初音ミクをみる。残酷な天使のテーゼだの荒井由実だのVU&ニコだの何でもありのステージ。

   

元々非常階段は「1979年にJOJO広重と頭士奈生樹によって、京都で結成された世界初のノイズバンド」去年のステージ格好いい。

   


そして灰野敬二。マイブラも真っ青の音の轟音が延々と・・・

   

「灰野 敬二(はいの けいじ、1952年5月3日 - )は、千葉県生まれ、東京在住の音楽家。非常に厳格な「音」へのこだわりをもとに、現在でも実験的な前進を続ける野心的な音楽家であり、ロック、サイケデリック、ノイズ、フリー・ジャズ、フリー・ミュージックなど、扱う音楽のジャンルは非常に多岐に亘る。一般的にはノイズ・実験音楽および現代音楽の系譜で語られ、過激なノイズ・ミュージックのアイコンとみなされることも多い。なお、いかなるジャンルに着手するときにも極めてプリミティヴな即興性が大きな意味を持つ。」川越スカラ座で見たかったな・・

   


その後は意識を失い、オープンリールテープスのビートが鳴り響いてたのにzzz.. 起きて会場に来てた友達と何人か会い、最後の冨田勲・・もはや生ける伝説。

 

 TOMITA×Steve Hillage フェイスブックに当日の写真が沢山あります。 彼のシンセサイザーから始まる功績はもう言わずもがななので、近年宮沢賢治の世界を初音ミクのオペラで表現した作品が別格であり、 その一端をこの記事でも読み取れるかなと思ったので紹介します。



映像も・・

   


フリードミューン、色々な意味合いで、貴重な体験ができたと思います。 オールナイトはつらいけど、これからこのイベントが続いて、休みがもしとれたなら、生き続けたいと思います。

 

夜が明けてDOMMUNEZEROから戻る人たち。

金曜日, 5月 31, 2013

ブラッドサースティ・ブッチャーズのヴォーカルが死んだ。ただただ、悔しかった。





気がついたら仕事が9連勤になっていて、昨日は25時半に帰って床に倒れこんで寝ていて、一昨日あたりはずっと6時出社で22時近くまで働いてて、出社早々怒られたりして、時々マネージャーに怒鳴られたりして(良い上司なんだけど)、わからなくなることが多くある。いったい自分は何をやってるんだろうって。

休みの日に、レコードじゃなくて近くのウォルマートになってる西友にいってスーツのズボンを買った。成人式の時のズボンが太ってしまって入らなくなってしまった。気がついたら自分も、大人になってしまったんだなと思った。 

今日もブースの撤去作業を一日かけてやっていた。物置代わりにしてるブースのものを出していたら、猫が飛び出してきた。荷物を運んで運んでまたそのブースに戻ったら、マネージャーが子猫をみつけたといった。4匹すみっこに怯えながらも、僕が近づいたら鋭い顔をして威嚇した。でもこの子たちはこんなスタジアムでなんか生きていけないんだから、明日になれば、運営に支障がでるから、しょうがなく職員が保健所に連絡して、恐らく捕獲されたあと殺されるんだろう。重たい荷物を台車に積んで、何度もエレベーターと通路を往復しながらそんなことを思って、少し前に読んだリバースエッジで子猫がふざけ半分で、悪気無い少年二人によって袋に詰め込まれて投げられて殺された場面がさらっと出てきてたところに何とも言えない気分になってたのに、目の前の子猫に触ることもできなくて、ただただ仕事をこなす自分がいた。大人になってしまったんだなと思った。



   



ブラッドサースティ・ブッチャーズのヴォーカルが死んだって、久し振りに9時前に帰ってきて、LAWSONで大量のレコード受け取って、自宅に帰ってきてクロネコからもスパイク・ジョーンズのでっかいDVD受け取ってワクワクしながら開封して、日本代表戦かと後半が始まりそうなところをテレビをつけて知って、パソコンつけて、Twitterみたら、吉村秀樹が死去って言葉がとびこんできた。社長から仕事の連絡がケータイのメールに入ってたけど、帰ってきたらまったりとアニメでも見ようと思っていたんだけど、ただただ、悔しかった。




 元々、kocoronoしか聴いていなかった。このアルバムは何度も聴いて、聞くたびに胸をぐって掴まされた。死ぬほど好きな作品。 高校の頃に組んでいたパンクバンドで渋谷屋根裏で一度だけライブをやった友達が、ブッチャーズが好きで、ギターウルフらとの対バンのライブに誘ってくれた。ライブは大概一人で見に行くもんだから、友達とライブを言ったのは多分あの時だけだと思う。全員がTシャツで、自分の倍の歳に近いと思うんだけど、それでもギターを掻き鳴らしながら疾走していた。他のアルバムを聴いていなかったから知らない曲ばかりだったんだけど、ずしんときた。 その後新作が出るたびによくなってるんだよって、僕がくだらない事で東北の大震災の月に卒業するはずだったのに大学を一年浪人するはめになって内定もきえて、それでレコード屋で半ばフリーターやってた夏辺りに車で「無題 NO ALBUM」を聞かせてくれた。

   

kocoronoの完全盤がでるって知って、新宿のパンク店で予約をとって、就活の最中に買いに行った気がする。特典のTシャツがkocoeonoじゃなくて無題にしかつかないって受け取りの時にいわれて、予約の時はそういう話じゃなかったんだけどっていったら、店員はTシャツをくれた。タコのデザインでゆらゆら帝国みたいな少しチープな灰色のTシャツ。その数年後にそのレコード店の別の店に自分は勤めてた。


 


 2ちゃんねるを見ていた時にブッチャーズのスレもみていて、その時にニコニコ動画でジャック・ニコルソンのPVが一位になったって少し話題になったときがあった。今日久しぶりにそのPVを見返して泣きそうになった。自分はたぶん、スーツをきてメガネをかけて禿げたおやじにだんだんと近づいていっているんだろうけど、銃で威嚇してステージに登ってギターかき鳴らす、PVのじじいみたいな焦燥感を内側で殺し続けてるのかもしれない。

   

結局レコード屋では正社員になれそうにもないことを悟って、焦って就職活動して、今の職場について、へとへとになりながらもうすぐ一年になる。そんな中でつくった小金で半年前だかにブッチャーズのBOXが出るとしって、kocoronoしか持ってなかったから予約して買った。持っていた最初のプラケースのkocoronoは、ロックを知るきっかけを教えてくれたもうすぐ三十路になる教会の知り合いのベーシストにあげた。 

ハードコアはもちろん、パンクにもそこまで心撃たれたりしないで、大学の入り始めの頃なんかは周りのロック至上主義さ加減にげんなりしていた。大学の頃に組んでいたバンド仲間が好きだった日本人のロックバンドのCDは情けないことに持っていなかった(クラシックロック好きという共通項はあったけど)。やっと、レコードを買ったりしてるけれども。 そんな中で一枚しか持ってないけど、自分はブッチャーズが特別だった。 


ブラッドサースティ・ブッチャーズのギタリストが死んだ。BOXに入ってたPV集のDVDを見ながら、綾鷹で割った焼酎をレトルトカレー食いながら部屋の電気落としてきいてて、今はヘッドフォンで爆音でkocorono聴いてこの文章を打ってる。今ヘッドフォンから流れてるのは、Twitterをきっかけに知り得た友達にあげた春のプレイリストの中で冒頭にいれていたから最近良く聞いていた ”4月/april 「大人になんか解ってたまるものか!」” あげたプレイリストの2曲めはThe Arcade Fireの、5月になったらアルバムをつくらなくっちゃという焦燥的なロックンロールソング。 



数ヶ月前に偶然休みがとれて、偶然知り得た壊れかけのテープレコーダーズの単独ライブにいったとき、SEでkocoronoが使われていた。壊れかけのテープレコーダーズはメンバー全員に、たまたま会場で残っていたポスターにサインを頂いて、今は額にいれて時計のしたあたりにかざってる。最近働き詰めだから、kocoronoを聴き終わったら寝なくちゃと思いつつ、全然眠くならない。

   


吉村さんが死ぬまで持ってた焦燥感が、どれほどの人の糧になったんだろう。

火曜日, 3月 19, 2013

まおゆう魔王勇者 人間宣言



アニメの「まおゆう魔王勇者 9話」録画していたものをようやく見ました。
元は2chで投稿していた小説で、一部転記という形をとります。


 願うこと、考えること、働き続けることを
 止めては、いけません。
 精霊様は……精霊様はその奇跡を持って人間に生命を
 あたえてくださり、その大地の恵みを持って財産を与えて
 くださり、その魂のかけらを持ってわたし達に自由を
 与えてくださいました 
自由――? 
 そうです。それはより善き行いをする自由。
 より善き者になろうとする自由です。
 精霊様は、まったき善として人間を作らずに、
 毎日、ちょっとずつがんばるという
 自由を与えてくださった。それが――喜びだから
 だから、楽だからと手放さないでくださいっ。
 精霊様のくださった贈り物は、
 たとえ王でも!
 たとえ教会であっても!
 犯すことのない神聖な一人一人の宝物なのですっ! 
使者「異端めっ! その口を閉じろっ 」 
 閉じませんっ。
 わたしは“人間”ですっ。
 もうわたしはその宝物を捨てたりしないっ。
 もう虫には戻りませんっ。たとえその宝を持つのが辛く、
 苦しくても、あの冥い微睡みには戻りはしないっ。
 光があるからっ。
 優しくして貰ったからっ! 
使者「この異端の売女めに石を投げろ! 何をしているのだ。
 民草たちよ、この者のに石を投げ、その口を閉じさせよっ!
 石を投げない者は全て背教者だっ!!」 
ざわざわざわ、ざわざわざわ 
 投げようと思うなら投げなさいっ。
 この狭く冷たい世界の中で、家族を守り、自分を守るために
 石を投げることが必要なこともあるでしょう。
 わたしはそれを責めたりしないっ。
 むしろ同じ人間として誇りに思うっ。
 あなたが石を投げて救われる人がいるなら、
 救われた方が良いのですっ。
 その判断の自由もまた人間のもの。
 その人の心が流す血と同じだけの血をわたしは流しますっ 
 命令されたからと云う理由で石を投げるというのならばっ!
 その人は虫ですっ。
 己の意志を持たない、精霊様に与えられた大切な贈り物を
 他人に譲り渡して、考えることを止めた虫ですっ。
 それがどんなに安逸な道であっても、
 宝物を譲り渡した者は虫になるのですっ。 
   わたしは虫を軽蔑しますっ。
 わたしは虫にはならないっ。
 わたしは“人間”だからっ

引用元:魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」4 103-113 http://maouyusya2828.web.fc2.com/matome04.html 

※人間宣言をしている女メイドのセリフは全て発言者名と「」は省いてます


農民への農地改革をした学士(魔王)が既存勢力である中央協会にとって邪魔な存在で、異端者として公開処刑をするため、鞭打ちの後、最後の弁として語る学士の言葉のラスト。学士といっても本人ではなくて、虫と呼ばれ蔑まれた元奴隷の女が、学士のメイドとして仕事を与えられて後々影武者として知識も与えられた女性(女メイド)が、影武者として処刑台に立った。

話としてははてな?の部分が多く、福音書やヨーロッパの近代文学などと比較してはいけないだろうけど、元々丁寧な演出や音楽といい経済と国家といった重層的な話をわかりやすく進む話しといい、このアニメは楽しみに見続けてた。そんな中仕事が失敗続きで、信用出来ないやつだという認知をされてきて個人的に会社にいる立場が少しきつい状況で、休みも悶々としている時でこの場面を見たので、「働き続けることを止めては、いけません」「どんなに安逸な道であっても、宝物を譲り渡した者は虫になるのです」といったセリフにはちょこっと心動かされた。

3月11日を過ぎ、季節も気持ちが悪いくらい暖かな春になってしまい、時が移り変わってしまって、そして受難週にも近づく今日。仕事が個人的に一気に厳しい状況にいるような中でどういう進路を選べばいいんだろうと考えてしまうけど、もう少し自分から目を離して、生かされていると言う事を考えて行きたい。




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