A long time ago in a galaxy far, far away.
スター・ウォーズがディズニーに買収され、ルーカスではなくJ・J・エイブラムスが監督をする、過剰にタイアップ商品が巷に溢れかえる最中、公開初日のチケット予約が始まった。僕は正直、その世間の浮かれた様子に全く乗る気がしなかった。だけどあんまりTwitterのタイムラインで盛り上がっているものだから、つい職場の近くの映画館の初日のチケットを購入した。そのお陰で、今日12月18日、この偉大なシリーズの公開初日・世界同時公開時の上映を体験することができた。
「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」は、徹底した旧三部作(通称エピソード4〜6)の世界観にオマージュを持ち、それを最善の形として作品とした。アメコミ映画などではよく、話のシリーズが行き詰まったりした折に、「リブート」と称してもう一度同じ話を違う形で作り直すという最映画化が多いのだが、スター・ウォーズにおいてはどうだろう。
最初の一作目を監督したジョージ・ルーカスが、90年代末から再び作ったスター・ウォーズの前史ともいえる、新三部作(通称エピソード1〜3)を撮った。再びスクリーンにスター・ウォーズが登場すると盛り上がりはしたものの、突飛なCGキャラクターや複雑な政治ゲーム、旧三部作の面影があまり分からない入り組んだ世界観などから、なぜだか評判が芳しくない。だからといって、スター・ウォーズがリブートしてまた、オリジナル一作目「新たなる希望」を作るわけにはいかない。(ジョージ・ルーカスは新三部作に体裁を合わせるように、旧三部作にCGを加えたり、俳優を組み替えたりもしたが)。新三部作を完成させたルーカスは、いつの間にかスター・ウォーズの製作を手放していた。そこで新たに監督となったJ・J・エイブラムス。彼が「ジェダイの復讐」(現:エピソード6:ジェダイの帰還)後の新たなスター・ウォーズを撮ったのだが・・
公開初日の感想は、(Twitterのタイムラインを見る上では)絶賛の嵐だった。もちろん僕も、観終わった後は興奮を隠せなかった。
「スター・ウォーズ フォースの覚醒」たった今見終わった。
歴史的体験ができた事に感謝。そして時代のたすきが、然るべき時にしっかりと行う事が出来た、その事が本当に素晴らしいと思った。
— こるすとれいんす (@colstrains002) 2015, 12月 18
これから映画館へ行こうと思っている方で、事前知識があまりないのならば、「新たなる希望」「帝国の逆襲」「ジェダイの帰還」と副題がついてるエピソード4〜6を見てから行くのと、知らずにいくのでは、この映画の見方も全く違うものになると思う。逆にエピソード1〜3は事前準備としては不要。(でも、そこがもどかしかった部分ではあるのだ)
この感想に書いたとおり、この映画を賞賛したい点を、大きく4点あげたい。(以下、どのキャラクターが出る/出ない、物語展開における一部ネタバレ有り)
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「フォースの覚醒」における最も大切な意義は、オリジナルである旧三部作に登場したメインキャラクターである、C-3PO役アンソニー・ダニエルス、ハン・ソロ役ハリソン・フォード、レイア役キャリー・フィッシャー、そしてなんといってもルーク役のマーク・ハミルなどが、(こういう言い方もあれだが未だ現役であるうちに)再びスクリーンに復活させることができたことだと思う。同時に、シリーズ全ての音楽を担当しているジョン・ウィリアムスに関しても同様だ。ハリー・ポッターシリーズにおいては、ジョン・ウィリアムスが音楽を担当した3作目とそれ以降においては、個人的に思い入れもまるで違う。音楽というものは、話・演技と並ぶか、それ以上に重要なものなのだ。
2点目は、前述した通りに、旧三部作へのオマージュやリスペクトに満ちているということ。それは作風においても言えることで、1作目である「新たなる希望」の最大の凄みは、「2001年宇宙の旅」などにおける難解なSF、アメリカン・ニューシネマなどで台頭した救いのない非娯楽的映画が多い風潮の最中、映画史初頭にあったようなシンプルな勧善懲悪の世界を宇宙活劇として蘇らしたこと。その上で神話などの、古典的な父と子の物語などといった物語を配する事で、普遍的な重みを映画に持たせることができたことは、一般的にもよく言われていることだとは思う。その元々あったエッセンスを1作目・2作目の展開を、「フォースの覚醒」では言わばなぞるかのようにリブートさせることで、スター・ウォーズシリーズの躍動感を取り戻すことができたこと。また、ハン・ソロの口癖や、キャラ同士の気軽なやり取りなどが、旧三部作と同じキャラクター・同じような新しいキャラクターによって再現されることだ。また、今作のマスコットとも言える「BB8」(上写真のドロイド)が、出番の薄いR2D2に変わって元気に動き回る。かわいい。
3点目は、物語そのものを、オリジナルの登場人物のドラマによって大きく展開させたことだ。それ以上はネタバレとなるので控える。ラストシーンは物語外の時代の流れも含めて、意義あるシーンだった。
4点目は、驚いたことに、買収先である「ディズニー」色が、全くないということだった。配給は「ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャー」のはずだが、冒頭には無音で唐突に製作である「ルーカスフィルム」、エンドロール後にもエイブラムスの会社である製作の「バッド・ロボット・プロダクションズ」のロゴ・映像がでるだけで、ディズニーはエンドロール中にあったディズニーサウンドという記載くらいしか出てこなかったのには驚いた(見落としただけかもしれないけれど)。20世紀フォックスのファンファーレがない(しかも初回上映においては予告・映画前の注意事項など一切ない)初めてのスター・ウォーズは、どこか厳かな雰囲気すらあった。世界観を大切にしている姿勢が素晴らしかった。あと付け足すとするなら、新三部作の際に追加された「エピソード◯」といった野暮ったい表記が、今作で再び撤廃されたことだ。
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オマージュではない、エイブラムス版スター・ウォーズの特色として、主人公がストームトルーパーである、敵側の歩兵だということだ。しかも名前が、ルーカスデビュー作を思わせる英数字のみ。ストームトルーパーから脱走した際に「フィン」と名乗るようになるのだが。しかもイケメンの白人とは違う、田舎っぽさもあるアフリカ系である。旧三部作におけるテーマのひとつに「クローン兵」があった。ストームトルーパーはクローンではないが、統制を持たせるために幼少期から洗脳を施して兵役をするという。そう言った敵側における市井の視点はこれまでのシリーズでは希薄だった。
もう一人の主人公「レイ」、強気な女性というとレイアも同様ではあったけれども、この映画においては、「新たなる希望」におけるルーク・スカイウォーカーが、この彼女にあたる。とても魅力的だった。
(以下、内容におけるネタバレあり)
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あまり述べられていないが、やっぱり僕は「フォースの覚醒」を手放しで賞賛できない。
一つめとしては、旧三部作をオマージュするがあまり、どうしてもそれらのシーンの二番煎じ感が否めない。「新たなる希望」におけるデススター破壊の出撃、あの息が詰まるような緊張感が、どうしても「フォースの覚醒」では感じられなかった。ルーカス自身が監督した新三部作の3作には、そういった事がなかった。また新しくスター・ウォーズをレイを主人公に置いて作るにあたって、本当に描きたいものは何か、今作では見えることができなかった。
二つめは、この記事のタイトルにもあるように「新三部作」に対するリンクが、全くというほどないという事だった。「フォースの覚醒」を調べるにあたって、ネット上では「エピソード1をみなくてもいい」だの、「新三部作は凡作」だの散々な言われようであり、「フォースの覚醒」に盛り上がるファンも、自分より上の「オリジナル」世代か、逆に新三部作の後のスター・ウォーズを知らない世代が中心のようで、まるでひとつの欠落のように、新三部作・・アナキン・スカイウォーカー三部作を取り扱われることに凄く違和感を感じる。
はっきりいって、僕にとってのスター・ウォーズは、ルーク・スカイウォーカーの物語ではなく、アナキン・スカイウォーカーの物語だ。中学生の時に当時の彼女といった、まだシネコンに駆逐されていない街の古びた映画館へ無理に誘ってみにいったのが「クローンの攻撃」だった。高校生の頃に、日本で殆ど行われていなかったデジタル上映を見るために、東京の東映撮影所近くの映画館へ行ってみにいった「シスの復讐」。当時のジョン・ウィリアムスの音楽は、80年代の頃とも違う奥行きがあり、何度も何度もサウンドトラックを聴いた(旧三部作に固着していない新しいテーマソングがどれも大好きだった)。エピソード3の時はクローン戦争を描いたノベライズ本にも手を出したりした。
アナキン3部作は、魅力的なこれまでのキャラクターが誰もいない過去の時代の、少年アナキン・スカイウォーカーが成長し、恋愛し、そして堕ちる話である。過去作に対して思い入れが無いからか、アナキン、オビ=ワン、パドメ、あとパルパティーンなどのドラマ、政治的駆け引きと情勢の変化、宇宙に点在するいろんな惑星の広い世界観、ドロイドやクローンが入り乱れる戦争、それらのほうが十代の自分にとってはリアルタイムでもあり、しっくりきたのだ。都市や海中などのアクションにも驚いた。当時広まっていたホームシアターシステムの宣伝には、大抵「ファントム・メナス」におけるポッドレースの映像がつかわれていたものだった。
三つめは、2人の主人公への感情移入がし辛いという点だった。レイとフィンはそれぞれ重い過去があるらしく、レイは外に出るチャンスがあるのに故郷に留まりたいと願うが、何でそこまで固着するのかは、あっさりとした回想でしか描かれない。フィンのトルーパー以前の事も同様だ。何で彼は殺しを拒んでしまうようになったのか。そのくせ、なんで彼がライトセーバーを起動させられたのかもよくわからなかった。人物に対する憎み恨み、ジェダイとシスの関係、その表現をこれからどう突き詰めるのだろうか。レイは誰にも教わらないのに、突然冷静になる描写が多々あったのも、天性がなせる技だったのか。うーん。
スター・ウォーズが再び盛り上がったものの、相対的にエピソード1〜3の意味が下がってしまうような気がして、そこに危機感をもったので、こうダラダラと長文を書いてしまった。もしかしたらエピソード8で、ジェダイの歴史をたどる際に、エピソード1〜3の物語も劇中で拾われるのかもしれない。少なくともまた後数年は、映画館で新作のスター・ウォーズがみられるのだ。
もう一度僕は、数年ぶりに「エピソード1」から順に見返して、また「フォースの覚醒」を見るために映画館へ行きたい。