火曜日, 11月 09, 2010

映画「神の子どもたちはみな踊る」(仮)

「神の子どもたちはみな踊る」は、三年前のアメリカ映画。




なぜか日本では未公開だったが、ノルウェイの森の映画化に便乗する形ではあるものの、六本木のミニシアターで公開。偶然月曜日の今日バイトも休みになったので、ディラン展と兼ねていくことにした。
前日に偶然友人と合い、カラオケをして(kick out the jamsをラストにマイクを捨てて叫んで歌った^_^; )第三礼拝にいってTSUTAYAでトムウェイツとクラムボンとジョンレノンを借りた。

村上春樹の他の映画作品は、「トニー滝谷」しか観たことがないが、あの作品はアート的にやり過ぎて、ちょっと退屈に感じた点もあったけど、そこまでしないと春樹的な空間は生み出せないのかと納得したりした。が、この「神の子供たちは皆踊る」は短い短編を題材にしながらも、一定の流れ続ける映画のテンポがあり、ラスト近くの名シーンともいえるとあるシーン、そして静かなラストカットまで一気に見せてくれた。
この短編は、1Q84の骨格的な短編だなと、映画をみて改めて感じられた。短編の内容も殆ど覚えていなかったのが幸いしたのか‥‥(段ボールにつめた沢山の村上春樹の文庫のなかにあるかなぁ)

 (イカネタバレ有り)
主人公ケンゴは、新興宗教的なクリスチャンの母と二人暮らしをしている。子供のように性欲に従順なケンゴは仕事もおろそかにしがち。

ケンゴには父親がいない。母がいうには、ケンゴの父親は父なる神様であるといわれて育った。幼い頃は母と二人連れ立って、近所に教会のパンフレットを配ってまわっていた。

ケンゴは幼い頃から人がどのように産まれるのか察していた。母と交わった男は誰なのか‥‥


主人公の部屋には大きなジョンコルトレーンのバラッドのポスターと、もう一つ映画のポスターが

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ボブディランの絵は、ほとんどが商用の版画であったのは少し心残りだったが、四季を四枚の同じ線路の絵でかかれた作品は近くでバラバラに見るのと、少し離れて四枚を同時にみたのでは、全く違う表情をしたのだった。淡いさっとかかれた景色の縁を、黒く波揺れながらもはっきりと縁取りをするのが、ディランの作風。おなじ景色や人を色合いを変えて書き換えて幾通りかつくったり、色あいや揺れる縁から生まれる景色は、ゴッホを意識してるのかなと思った。

ただ彼は、どれも完成品として作り込まず、その場の瞬間をスケッチのように素早くとらえているため、所謂有名な画家らの作品には劣るのかもしれないが、受け手に与える情景表現は、彼の曲とはべつな感情を呼び出すんじゃないかと思った。なぜか僕は、部屋の角で座る女性を描いた絵が一番印象的だった。がどの壁だけが描かれ、色が女と一緒になっていたり、縁を関係なしにはみ出しまくったり、したへ滲み流れてる、瞬間描写と、何も凝らないからこそでてくる、はっとさせる構図はすごいなぁと素直に感じた。


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