金曜日, 9月 26, 2014

グラスリップ、最終回に寄せて。







学生の終わり頃から深夜のアニメ作品を見始めてから、気づいたらもう5年位経ってしまった。けれどもここまで先の読めない、重層的な小説のようなアニメ作品は初めてだった。感情と自意識に揺れる放浪息子や東京マグニチュード8.0のような作品もあった。ループものをセカイ系として昇進させた涼宮ハルヒやまどかマギカといった作品もリアルタイムで観ることが出来たけれど、それらとも違う。近年夢中になった一連のKeyの作品は、幼少期と自己の幻想との並行物語をとりあげるけれども、その「わからない」部分をはっきりと幻想として描写している。

けれども、このグラスリップ、表向きは爽やかな青春の夏物語という描き方をして、わくわくするようなナノライプの音楽に期待して可愛らしい絵のキャラクター達に、他の青春を描いた秀作なアニメを多くのファンは期待してしまったのだと思う。

しかし内容は全く違った。

震災直前に放送していたまどかマギカもまた、視聴者を裏切るような表向きなポップな絵と反する裏側のアバンギャルドと内向的で壮大な結末に、時代背景も相まって大いに盛り上がった。でもそれは、その絵の反転が分かりやすい色だったからこそのブームだった。対してグラスリップは一見何も考えずに見ても、まだ爽やかな夏の1頁というような受け止め方もできるし、元気な登場人物達は、前述したような作品群のように「わかりやすい」内向的な描写も、突き抜けたセカイの反対側を描いたわけでもない。ありのままの福井県の、あたり前の風景を描いたに過ぎなかった。だから、ある意味、筋がめちゃくちゃで特別な世界を描くのに中途半端に失敗した話題にもならなかったアニメとして、もう、隅に追いやられ兼ねているようにもみえる。

物語に必要な起承転結は存在しない。曖昧な、断絶的な登場人物たちの何気ない恋愛と群集劇の繋ぎあわせである。そしてそれは最後まで突き通された。これがある意味わかりやすい、実験的な切り取り方をしたら、とたんに大騒ぎになったのかもしれない。

テーマとしては、「時をかける少女」である、思春期の少女の特別な体験で、最終回の母親のセリフからもそれは伺い知れる。比較としては細田守監督の同名の映画(ショパンを使用している本作同様、この映画ではバッハのゴルトベルクが主題としてうまくつかわれている)および、おジャ魔女どれみの、同じ「ガラス工房」を舞台に使われた、飛び越えた先にある大人という現実への象徴的な一編がある。

また他の方もあげていたが、出崎監督作品のAIRにも(とある演出を抜きにしても)通じるものがある。あの作品を、原作をそこまで知らないままで素晴らしい脚本だったらしい、映像化されなかったバージョンの脚本が、もしかしたらグラスリップにおける最終回のようなものだったのかもしれない。


「駆」という存在に対して、幾らでも謎解きはできる。そのための種も、特に最終回には散りばめられている。けれどもそれはあまりにも何気なく置かれているので、さらっと流されて物語は終わってしまう。ある種の消化不良ともいえるし置いてかれて腹を立てる人も多いと思う。その謎解きをしていってもいいのだけれど、そういう切り取り方ではなくて、もう少し違うベクトルで物語をすくい取っていくと、とたんにその意味あいが趣きのあるものに変わる。それは絵画であろうと、短歌であろうと、音楽であろうと、同様である。そういった手助けある深みを持たせてくれた「グラスリップ」みたいな作品は、もう現れないのかもしれない。

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