木曜日, 1月 21, 2010

映画 かいじゅうたちのいるところ (Where the Wild Things Are)




これからみんなでめちゃくちゃ踊って騒ごう騒ごう

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THE ARCADE FIREが大好き。その中でもWAKE UPは生きてる間に出会えた特別な曲10選のひとつに入れるくらい大切な曲。



(神がかり的なライブのハイライト。50秒あたりから曲がはじまる。)



で、それが映画の予告編「かいじゅうたちのいるところ」に使われた。あの、うおーってサッカーのアンセムのような曲にのって現れたのは、こどもと着ぐるみのかいじゅう・・その予告編から発せられるエネルギーは尋常じゃなかった。



お金がない中でも、就活や試験で忙しくても、どうしても行きたかったこの映画。大学の心理学の授業の中で、この絵本を素直にアニメ化されたものが、一番最初の原作との出会い。





そのあと原作の絵本も原書で図書館で読んでみた。そしてその絵本はビートルズのホワイトアルバムと一緒にアメリカのAmazonから注文してみて、昔保母だった母親にもそんなの買ったのと気にかれられた。

 (洋書で四位!)


その絵本で、主人公マックスがそれはそれは生き生きとしていて、真ん中らへんのセリフもなく全面絵になってる「かいじゅうおどり」のシーンが特に好き。最近はタイアップかなにかで、大宮駅のなかの服屋や渋谷のどこかの店でも、この原作の絵柄が使われてたな。絵本もヴァイナルLPのような、ものとして存在感のある優れたアートと言えるんじゃないかな。ただインテリアとしてだけで見るのはあまりにも勿体ない。

時間も余裕ができたので、春のような陽気の今日、久しぶりに一人で映画を観に行った。お客さんもまばらのなか、広いシアターでみられた。自分の席はちょうど真ん中らへん。ポップコーンをつまみながら見るのは控えることにした。

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(以後ネタバレあり)

(今日到着したばかりのサントラを聴きながら・・・)




冒頭。これにつきる。ぐわああああっと犬を追っかけるイカれた少年(主役の)マックス。それを超ド近距離で荒々しく撮影し、バンと凄い顔のマックスのよこに子供の手書きのような字で書かれたロゴによってこの映画は幕をあげる。正直アバターよりド肝を抜かれたな。

とにかくこの映画、大人からみた子供の世界でも、子供のための子供の童話でもない。目線はマックスそのもの。それしかない。彼の少年らしい嬉しい感情、怒れる感情、時に悲しくて辛い感情が、ものすごい大きさで・・・・というかそれだけを徹底して映像化してるのがこの映画だと思った。

一見、「ナルニア国物語」や「はてしない物語(ネバーエンディングストーリー)」、「不思議の国のアリス」(「ホーム・アローン」もそうかも・・)のように、日常から異世界へ飛んで、そこで大冒険をしたのちに、現実世界に成長した姿で帰ってくるお話のように見えなくもない。

最初のおねえちゃんにも、おかあさんにも、かまってもらえないマックス。そんなマックスを本当にあと一歩下がって撮影してしまったら、もう彼のそばに観客はいなく、大人として彼を「子供だな」と見下げてしまう。(見下すとはちょっとちがう。)彼の、おねえちゃんやおかあさんへの愛・気持ち、そして彼らのそばにいる他人への嫉妬・・・というか悔しい気持ちが音楽とともにマックスのなかであっと言う間に表にでて、彼は「かいじゅう」になってしまう。その感情は、親に怒られた後にひとりっきりで部屋にこもった、あの世界が終わってしまうような強烈な気持ちでいっぱいいっぱいになってしまう・・・そんな誰もがもったことのある感情ではないか。この映画ではあの感情に支配されてしまって、どうしようもなくなって冒頭からこの映画は泣かせてくれる。(隣で見ていた女性は、結局映画上映中ずっとグスグスいってたなあ)

マックスが家を飛び出して、走り続け、走り続けるとそこはもう舟の上―。のくだりで、未だにマックスになっていない観客は完全に置いてきぼりをくらうだろう。彼の果てしない想像力は終始彼の世界を広げ続けている。

そう、この映画では、大人になればなるほど、世界は小さくなってしまい、自分自身もどんどんちっぽけになってしまった、と言うことに気付かされてしまう。

絵本ではおおかみの着ぐるみをきて大騒ぎしたのちに、母親に叱られて自分の部屋へいくはめになる。その子供部屋のなかで何故か木々がおいしげり、舟がでてきて、海へ旅にでていき、かいじゅうたちのいるところへとたどり着くのだが、映画ではそこを「我が家」から走って逃げるというように表したのだろう。(「大いなる遺産」「時をかける少女」のような「走る映画」大好きな自分にはたまらない。)

かいじゅうたちのいるところへ辿り着いた後の、かいじゅうとのふれ合い。そこは身体が大きいのに三頭身しかない、かいじゅうたちがいる。声はみな大人の声なのに、中身はマックスと同年代・・・(深読みすると、彼らは全員マックスそのものなのかもしれない)。彼らは不思議とみんな悲しい顔をしている。

かいじゅうおどりへのくだりにくる、カレン・Oの音楽が最高!あの躍動的な絵本のシーンをわくわくさせる映像にしてくれた、けど、おどりのシーンは意外に短かったなあ。

「すべての世界はキングのものだよ。でもあの穴、それとあの・・・は違うよ」とマックスに話すかいじゅうのキャロルのくだりが、じゃあキングのものってなにさと思えて可笑しい。

それぞれがうまい関係を結べないかいじゅうたちを、キングになったマックスは「砦」をつくってみんなで住もうと提案してまとめようとしたり、泥団子での戦争ごっこをしようとする。けれども頑張れば頑張るほどうまくいかなくなって、最後にはみんなバラバラになっちゃう。最後にみんなでいっしょに住む、折り重なって眠ることを望んでいたはずなのに、マックスは自分一人になれる「秘密の小さな部屋」が欲しくなってしまう。もうかいじゅうたちの間に彼の居場所はなかった。そのことで、キャロルはおこってしまう。

実はキングじゃなかった、すべてホラ話だった、というのはさして重要ではない。彼が帰るときには何も解決されていない状態で、この辛い状況からまた逃げようとしているだけに見えそうだけど、彼の家族はかいじゅうたちではなく、自分の家であったということに気づく(「南部の唄」のうさぎどんみたいに)。それを察した他のバラバラだったかいじゅうたちも、見送る時にはみんな一緒にいて先別してくれた。映像の中での、そのお別れの際のかいじゅうたちの配置が近遠ばらばらだけど揃っている感じがなんだか頭に残ってる。

ぎりぎりでキャロルと会えて、我が家へ帰るとき、クサイ台詞が一切なく、ただただみんな「ワオーーーン」と吠えあう。その後、母親のもとにもどり、スープ(絵本にもあった冷めていないスープ!)をすするマックス。そのマックスを真近くで眺める母親、二人の間に一切言葉がない。そのまま映画がおわってしまう。え、おわり!?と感じてしまったけど、それが絵本の終わりでもあるのだからしょうがない。マックスがかいじゅうではなく普通の子供と自覚することによって終わる。その後のおねえちゃんとの和解話、そんな大人目線のお話はいらないんだろうな。

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