火曜日, 11月 12, 2013

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 雑記

仕事帰りに叛逆の物語の2度めの鑑賞してきました。

初めて見に行った時は、公開3日目の朝で、ちょうど中学生女の子グループが前に座って、上映中も色々おしゃべりしていたんですが、映画館という中で・・

10代の思春期で自意識が不安定になる女の子が、自己模索のきっかけになる「体験」として、まどかマギカがもし成したとしたら、それこそ本当の意味でのファンタジーともいえるんじゃないかと感慨深くなった。

大概が20代のアニメおたくの男ばかりで、やたら理屈で討論しがちではあるけれども、東欧アニメ的な手法を取り入れた、感覚ビジュアルにストレートにぶつけてくる、映像快楽っていうのは、余計な深読みをしなくても、劇中の主人公と同世代の女の子ならこそ・・なんじゃないかと思う。


中二病の源流なのかわからないけれど、エヴァンゲリオンの碇シンジは中学2年生で、まどかマギカの鹿目まどかや暁美ほむらも中学2年生。同じ自己模索をするにしても、方や人との関係を否定して内に籠もり、方や人との関係を求めるがあまりに突っ走り、共に小さな自分の世界と、全世界や宇宙といった話を重ねあわせ、宗教的ないしは神話的な結末に至ってしまう。

一時期そういう物語がセカイ系ということで揶揄されたのかもしれない。ただエヴァが聖書やらの話の一部をインテリ的に話の部品に取り入れた世界観、ビジュアルもという凄く青年的描写なのに対して、まどマギは一見美少女的なキャラクターとタイトルで開けた窓口と、中身と出口とのギャップがーー


あーこういうエヴァとの比較とか別にどうでもいいんです。

いわゆる、エヴァンゲリオン以後、飛び抜けたアニメ作品がなかったと思っていた節もある中で、ようやくこの作品はその地位を獲得できたんじゃないかと思う。これだけ深夜アニメという枠ができてアニメが量産され一つの文化や価値観をつくっているのに、これまで頭ひとつでた作品が中々なかったのは・・作画やキャラクター表現が素晴らしい京都アニメーションの話題・代表作の涼宮ハルヒの憂鬱、個性的な表現方法が素晴らしいシャフトの諸作品だとかあったのに、なかったわけなんです。



うまく話をまとめられないながらも、視聴者にネタバレしちゃいけないと思って一生懸命話をするおぎやはぎのラジオのなかのやはぎが面白くてしょうがないなかで、最後のほうで偶然にも、話の例のなかにデビルマンがでてきた。新房監督の基本になった漫画であり、町山智浩のダークナイト論時のラジオでも、基礎知識としてのダンテの神曲と一緒に、ダークヒーローとしてのデビルマンの神話性を話した(必聴)

  

個人的な心情からすると、まどかマギカにおける全能の神や救済の概念の事、犠牲というにはあまりにも痛みが伴ってないんじゃないかという事もあるし、神曲の悪魔に対しても、完璧な世界における必要な不自然性、叛逆へのあこがれというのは、分かるんだけどそれだけが格好いいことだという価値観はどうしても違うと思うから、そういう部分も込めて全面的にまどマギに共感できないんだけど、だけど面白くて惹きつけられてしまうのは悔しいけれど事実。


デビルマンは読もうと思う。


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