(i am Kólßtrains: マイマイ新子と千年の魔法、片渕監督の講演、川越の街並みと古きよき映画館。 のつづきです。)
どうもこの映画、宣伝ビジュアルでかなり損してる気がする・・・。映画公開時、垢抜けないポスターをみて、みるのやめちゃった。そうしてるうち、あっと言う間に地元の上映が終わっちゃった。(なんてもったいないことしたんだろ!)その時に原作は読んだ。(そしてなんで感想書かなかったんだろ)
で、監督舞台挨拶もあった、川越スカラ座の上映をみてきた。
一番思ったのは、これは2009年の映画のはずなのに、川越スカラ座でのフィルム映写に映える、古き良き(ハイジやトトロのような)アニメーション。その背景にある緻密な時代設定通りのリアルな描写に感動した。また原作終盤にあった、「大人」の階段への虚無的描写の視点の違いに驚き、千年前の都の描写の多さにより、時代スケールが「少女」の視線から果てしなく広がるイメージがビジュアル化され、エンドロールが流れた(バックのコトリンゴの歌も素晴らしい)後、久しぶりに映画の余韻にずっと浸っていたいと思える、そんな作品だった。
(監督のサイン!)
以下、結末まで感想を書いてしまってます。ご注意ください。
原作では、記憶が薄れかけているので実際どうなのか判らないけれども、この映画の副題が「千年の魔法」というのもあるため、原作後半の細かいシーンが無くなった代わりに、千年前の描写が何度も何度もなされていた。現実の新子たちの時間と並行、対比されて、都にいるお姫様の様子が描かれていた。(千年前のお姫様、パンフレットや劇中によると、この少女は清少納言らしい。)
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(また感想を書く期間を延ばしてしまった。大学の図書館から7か月ぶりに文庫「マイマイ新子」を借り直す。貸出ハンコが2つしかなく、両方とも自分・・)
片渕須直監督は「子供と世の中の接点に『死』を置く原作の構成にひかれた」と話す。(略)「昭和30年代にはまだ、死は病院に隔離されたものではなく、身近な暮らしの中にあった。」
片渕監督といえば、『あずきちゃん』(各話演出)、『名犬ラッシー』(監督)といった日常描写の名手として知られる一方、『BLACK LAGOON』(監督・シリーズ構成)のようなハード・ミリタリー・アクションの旗手として名を憶えている者も多いだろう。一見遠いこの2系統について、監督自身はこんなふうに語っている。「人間には負の部分、不幸の部分があります。それを描かなければならないという思いが、『アリーテ姫』の後半をやっていて特に募ったんです。そのときに出会った企画が『BLACK LAGOON』でした。この作品を手がけた事で、また希望が描けるようになったんです」。
片渕:「光抱く友よ」という、もう一つの髙樹のぶ子さんの小説があって、原作「マイマイ新子」そのものよりも、こっちの方が『マイマイ新子と千年の魔法』と途中までほぼ同じ展開をたどってます。(略)必要なのは、お互いの心の奥底にあるものに対する想像力で、相手の気持ちをいかに汲み取るかということなのかもしれない。相手の心の中にあるものにまでもっと自分の想像力を伸ばしてみようよ、そう思う気持ちが大事なんだろうと思ったんです。
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決して「昔はよかったね」という懐古主義的なものでもない。「感動の超大作」という名前を付けるのも違う。お涙頂戴な作りじゃない。マナー正しいよい子ちゃんの姿でもない。なんちゃってジブリでもない。子供達が裸足で地面踏みしめながら生きている世界と、ぶちあたる現実の強烈な壁を描いた、人間の心の奥底を「いい」「悪い」含めて色々な意味でほじくるどえらい作品じゃないか。
この話は、よく「赤毛のアン」と比較されるらしいけど、自分は(遠い昔にアニメを見た気がしなくもないけど)ほとんど記憶に残っていない。ただ、ヨーロッパの古い翻訳もの児童書ノスタリジアだけを、この作品に求めちゃいけないと思う。うえに転記したブログさんも、その点を深く追求している。
原作では、この作品に「スタンド・バイ・ミー」的な、大人になることへの子どもの、そして近代化の波から少しづつ欧米化になっていって昔ながらの世界の終るかんじ・・みたいなむなしさみたいなものも、新子による一人称の淡々とした描写から垣間見ることができる。そしてその、ある種の大人のむなしさみたいなものを、映画では全く違う切り口から見出すことができる。
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(2010.07.18)
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つくづくひどいもので、この感想記事もずっと放置していた。映画もだんだん記憶から抜けていく中、僕は図書館から借りた「マイマイ新子」の気になったところに、小さい紙を挟みながら、ざっと再読した。先日のライブの時もポケットにこれをいれていて、待っている間呼んでいた。図書館の本なのにすり切れた感じになってしまった。まあでも誰も読まれないで棚に入れっぱなしになってるよりかはいいんじゃないかな。
久しぶりに読み返して、はっきりと映画と原作のスタンスは別物だということがますます感じられた。一見、上記にも書いたが青少年推進図書的なお真面目な、かったるい話だが、原作では一貫して、主人公新子による一人称の物語だ。しかも短編が続いていく形状になっているため、一つ一つの話が非常にあっさりとしている。
逆に、映画では小説のエッセンスを取り込みつつ、独自の平安時代の物語、新子の友人としての貴伊子の存在をとても大きくしている。逆に結末はまるで「トトロ」のように後日談的に、原作には存在しない新子の引越しと別れのようなものが差し込まれる。この土地での平安時代からの、そして少女時代特有の千年の魔法というものを強調したゆえ、土地というものから離れなくてならなかったのかもしれない。あくまで「その時だけの特別な出来事」として・・・
原作では貴伊子の存在は殆ど無い。その代わりとして、幼馴染みのシゲルがある。そして原作は、主人公が全く映画のような夢想家ではない。だから平安時代的描写もほとんどなく、千年の魔法に掛ける思いが映画のように強調されていない。原作では映画よりも、「戦後から高度成長期への日本」に「少女期から大人になる新子」をかけて、その隙間に存在する様々な死を通じて「変化」というものが一番はっきり出ていると思う。それは、よくありがちな「特別な経験をして成長した」的な、この時の人生の前後とは違う特別な時というように色分けがされていない。非常にナチュラルにさらりと書かれている。また、映画では過去として平安時代での身分問題を比較として出されるのに対し、原作ではより現実と繋がっている太平洋・日中戦争の話がよくでてくる。
現在的なアニメ表現に媚びない「マイマイ新子と千年の魔法」は素晴らしい作品だ。そして、主人公たちが体験んすることは、何十年後の未来に生きている自分も全く「そんなことがあった!」って分かり合える子供ならではの行動や感覚で溢れていた。監督の舞台挨拶でも、「自分よりも若い制作者のひとりが、実体験として新子のようなことをしたみたいなことを話していた」のような話をしていた。
映画でもでてきた「山賊の穴に潜む山賊へ向かう決死隊ごっこ」の話で、映画では防空壕にいたのは死体ではなくネコ・・ていうオチだったのに対し、原作では満州の戦争で片腕をなくした男が登場。
「怖いからってたしかめないままだと、ずっと大人になっても怖いままだ。おじさんみたいになっちゃうぞ。逃げちゃダメだ。(p89)」
そして、戦後まもない頃のときに広島へいく祖父初江・母長子と新子との会話(p117-118)・・・
「ねえ、あやまちって何?」
「だから、原爆のことよ」
「ねえ、誰が繰り返さないの?」
「誰がって、人間よ」
「日本人?」
「日本人もよ」
(略)
「あやまちって、誰があやまちしちゃったの?」
「黙って拝みなさい」
(略)
「・・・ねえ、アメリカがもう二度と原爆を落としませんって、誤ってるの?」
シゲルや貴伊子たちと映画館で「エデンの東」を観に行った時の新子の感想。(p127)
(涙を流すキャルを演じた)ジェームズ・ディーンの泣きそうな顔ばかり浮かんでくる。
映画に出てきた人はみんなアメリカ人なんだと思った。原爆を落としてトシオさんやトシオさんの息子を殺したアメリカ人なんだ。
でも、どの人も可哀そうだった。
その後のシゲルとの会話。
「心中がロマンチックなの?」
「そりゃそうだ、そういうのはロマンチックって言うんだ。ジェームズ・ディーンは死んだから、もっとロマンチックなんじゃ」
「死んでないよ。死んだのはお父さんだもん」
「新子は何も知らんのか。ジェームズ・ディーンは死んだんだぞ」
「死んでないもん」
新子は泣きそうになる。こんな泣きそうな気持がロマンチックなのかな。
原作では大きな出来事が二つ並列して起こることが多い。ラストの小太郎の死もそうだが、例えば、シゲルの父が先祖代々大切にしてきた田んぼを売り、自転車屋(将来の車屋)を始めたことを聴いて怒る、元地主だった祖父小太郎。その時新子は中学生になって下品な大人の笑い方をするようになってしまった八郎とその友達が、新子のもってた祝い酒を奪いこぼした事について、とあることから内緒にし、その為に母から怒られてしまう。その時の新子の父の言葉。(p198)
「おじいちゃんも、シゲルくんのお父さんも、みんないろんなことで迷ってるんだ。ほんとはこれからどうなるかが、不安なんだよ。お父さんは迷うことがあったら、顕微鏡を覗くことにしている。どんなに小さくても、顕微鏡で見えるものは本物で、百年ん経っても変わらないんだからね」
シゲルが父に殴られた時にシゲルがいった「自由には責任が必要」という意味を解し、(p206)
よくわからないけど、ゲンコで撲られたのは、きっとそのせいだ。自由って子モチのことで、責任はゲンコ。シゲルは子モチをぶつけたから、ゲンコで撲られた。これでおあいこって意味なのかな。
新子に新しい食堂へハンバーグを食べさせるためにお金を受けとったときの新子。(p220)
新子の気持は、今にも雪が降り出しそうな空と同じくらい複雑だった。
(略)
自分のために(育成費として)オルガンが売られてしまって、今はこの二百円だけになってしまった。新子が産まれた九年前は、この二百円はもっと価値があったのだ。
それを思うと悲しい。長子や初江にも、ちょっと申し訳ない気がする。だけど、ハンバーグは嬉しい。
今気がついたが、新子の独り語りという形状の割には、母親や祖父母の名前を、お母さんやおばあちゃんのように書かずに、会話文外ではちゃんと漢字の名前で書かれている。ということは、この話は、かつての自分の姿を後日成長した新子が振り返るというような(まさにスタンド・バイ・ミー)感じなのかな?
新子の父と母の会話。(p249)
「世の中がわからなくなるのは、大きいところばかりを見ているからだ。小さいものを一生懸命に見ていると、なんだそういうことか、と思えてくる。いろんな嘘もみえてくる・・・」
「あなた、新子はまだ・・・」
(略)
「いや、新子にしかわかってもらえんから新子に言ってるんだ。これから得体の知れない渦が襲ってくる。週刊誌だって何を書くかわからん。わけがわからんようになったときには・・・」
新子は東介を、ちょっとだけ恐ろしいと思った。東介の体の中に、いつもと違う頑固な生き物が入りこんでいるようだった。
ひとりでヒバリのヒナをみたときの新子。(p261)
ひづる先生がいなくなるのはさみしいけれど、ひづる先生が幸せになるなら、それでいいんだ・・・。
悲しいけれども胸の中が熱くしんとなって・・・。
新子は、何もかもが初めての気分で、どうしていいかわからなかった。
笑いたいような泣きたいような」
でも新子は、笑うことも泣くこともしないで、そっとヒバリの巣からはなれた。
麦畑の端まで来たとき、わっと声が出て涙が流れてきた。
畑に出ていた初江が新子に手を振った。
「どうしたの?新子、ケガしたの?」
ああまただ。
算数の、引いた数はどこへいくのか考える新子。(p269)
大阪に行ったしまったタツヨシ。東京にお嫁に行ってしまったひづる先生。引き算されても、消えちゃうわけではないんだ。
でも新子は、引き算を間違えたりしなかった。残った方の、どうでもいい数字を書けばマルがもらえるのだ。先生もお母さんも、それで安心する。
原作をかいつまみ・・・。
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