月曜日, 7月 26, 2010

トイ・ストーリー3感想 -Toy Story 3




ほとんどの上映館が3D放映だとは思うけど、最初の短編「デイ&ナイト - Wikipedia」のためだけにも、絶対3Dでみるべき!



往年の初期ディズニーの絵柄を思わせる「昼」と「夜」。彼らの体の奥には立体的な昼と夜の世界があり、そこで二人は景色をめぐってドタバタけんかをするが、次第に両者ともお互い良い世界が昼と夜にあるということを認め合う・・・そして日が沈み、昇っていき・・・!という短編。この奥行き感は素晴らしいし、世界観も往年の40年代頃のディズニー短編に匹敵するとおもう。


そして、本編「トイストーリー3」。この特報をみよ!



。・゜・(/Д`)・゜・。

正直、事前知識はあまり持たずに観に行った。一応見ていなかった前作2だけはレンタルして観たけど、随所随所にぐっとさせるシーンがうまいんです、本当に。

以下ネタバレ有り注意


こんな素敵なポッドキャストラジオがありまして・・・

TBS RADIO 放送後記 第171回(2010年7月17日) (ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル)

この感想を聴いちゃったあとに感想を書くので、ちょっと変則的な記事になっちゃうかもしれないですがご了承願います。

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初めて「トイストーリー」を観たのはまだ小学生の頃、親が借りてきたビデオだったと思う。なので3を観に行ったときは1の詳細は、その小学生の時に何回か観たという過去の記憶だけ。だからウィキペディアで「人間に動いているところを見つかってはいけない」みたいな設定があったことすら忘れていた。それだけトイストーリーの世界観にはしっかり馴染んでいたのかな。

1はショッキングなシーンが幾つかあると思われる。特に、おもちゃの持ち主アンディ少年から離れ離れになった先に、シドというおもちゃを解体してグロテスクな玩具として遊ぶ少年の描写がほとんどだろうけど、少年期にとってもショックをうけたのはそこじゃなかった。新しいおもちゃとしてアンディの部屋へやってきた「バズ・ライトイヤー」。彼はおもちゃではなく、スペースライダーというキャラクターが自分なんだって思い込んでいる、いやそういう存在なんだって自己存在として認知していた。それが、ふと見てしまった、バズ・ライトイヤーのおもちゃのテレビCMで、「※実際には飛べません」の文字が現れたあのシーン!!それをみて絶望するバズ。存在理由の否定。そこまで考えなくても、ただただあの文字は、小学生の頃の僕はとても怖かった。


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2作目は、ライムスター宇多丸氏が貶していたスターウォーズのしょーもないパロディ描写を、僕はゲラゲラ笑いながら観ていた。トイストーリーという作品に対して思い入れがないわけじゃないけど、もともとパロディやギャグ描写も多いライトな作品でもあるんだから、2に関してはストーリーとして完璧さを求めちゃいけないのかなーともおもった。

(なぜかヴァン・ダイクパークスのソングサイクルを聴きながら・・・)

一方のウッディだが、アルの手配した職人によって丁寧に修復され、長い間に落ちた塗装は塗りなおされ、汚れはきれいにされて、ピカピカの新品同様になっていた。しかもなんと、彼は白黒テレビの時代には絶大な人気を誇りながら、スプートニク・ショックのあおりを受けて打ち切りとなったカウボーイ・ドタバタ人形劇『ラウンドアップ』で、おてんばカウガールのジェシーや、おっちょこちょいの金鉱掘りプロスペクター、元気いっぱいの愛馬ブルズアイと共に活躍した主役の今では数少ないキャラクターグッズだったのだ。トイ・ストーリー2 - Wikipedia

結果的に悪役になってしまったプロスペクターに対して、主人公たちはおもちゃの存在理由として、博物館で安泰に過ごすことではなく、子どもと遊ぶことという結論を押し付けるのが嫌だと宇多丸氏。このプロスペクターは、三作目の悪役ともいえるロッツォ・ハグベアとの違いはなんだろうか。

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トイストーリー3は、突然変異的続編などでなく、色々なところでトイストーリーの流れ(とくに2作目)を踏襲している。冒頭の鉄道パニックアクション(2作目はスターウォーズをパロッたバズ主役のSFアクション)やら、主人公ウッディが他の仲間と離れ離れになるところ、そしてけんかしてしまうところ、2作目のおもちゃやでのバタバタと3作目の保育園のバタバタ、バズがおかしくなるところ(前作は入れ違い)などなど。

2の名シーンは、カウガール人形ジェシーが、かつての持ち主エミリーが成長してしまったために捨てられたところを悲しく歌うシーンではある。3作目にも直接繋がる「持ち主が大人になってしまったら、おもちゃの存在意義もなくなる」という運命にうな垂れる彼女を、ウッディは再び、子供の持ち主のところへいこうと誘った。


そして最終作である3作目。

この作品を完璧な作品にするとしたならば、冒頭は↑にもあるホームビデオの映像、そしてエンディングは、大人になったアンディがついにウッディと決別して、女の子におもちゃを譲り渡したゆえ、一人車で出かけていってしまう別れのシーンをラストにもっていけばいい。(で、カーステレオからは「キミはともだち」が流れ、エンドスクロールが・・・)

みたいなことをしないのがトイ・ストーリーなのである。主人公は人間アンディではない。人形ウッディなのだ。そしてこの作品の成功した理由としては、子供だけではなく、大人にも媚びなかったことがあげられる。だからこそ、必要以上に第三者の視点を入れなかった。日本のお涙ちょうだいドラマならば、アンディの両親の視点だとか、アンディ自身の視点をもっと入れてしまって、「おもちゃ」をサブからみて、存在意義などの本質から遠ざかって別れの涙ばかり強調するつくりになってしまうはずだ。

本作のラストは、パロディ色の強い前作のように軽い流れのエンドである。(スパニッシュ化したバズとジェシーが踊ってそのままスペイン語の「キミはともだち」が流れる)冒頭も前作同様に、西部もののパロディアクションで、子供達の目を一気に惹きつける。

今作でのアクセントは、美少女人形バーニーに惹かれるケンという人形で、彼の80年代的色男なパロディ描写がいちいちツボ!逆のアクセントとしては、敵役の赤ん坊の人形。声がリアルな赤ちゃんの声だから尚更怖い。そのへんの感想は、↑のライムスター宇多丸氏と同じ感じ。宇多丸氏が取り上げずに、僕が観た劇場で受けが良かったのは、三人組の宇宙人形の人形で、「カ~ミ~サ~マ~」など電波な発言が愛らしく面白いのだこれがw

刑獄からの脱走アクションもなかなか。


で、別の主題としてある「お別れ」と、「おもちゃの存在意義」。


今作でなによりショックなのが、2までにあったたくさんのおもちゃの仲間が殆ど居なくなっているということ(主人公ウッディの彼女的存在の人形もいない)。アンディに長年遊ばれていなかったおもちゃたちがアンディを惹きつけるために、携帯電話をつかって僅かな気を引くというのもまた悲しい。

その後、アンディ以外のおもちゃが黒袋に入れられて押入れにしまわれるはずだったのに、母親が間違ってゴミと一緒にしてしまった。中にいたおもちゃ立ちは自分たちは捨てられたとショックをうけ、ならばと保育園へゆずる箱のなかへ移動した。「自分たちは子供達に遊んでもらうこと」を存在意義としてもって。でもウッディは「元の持ち主の希望するところにいることが大事」だと、前作で行動したときの意見とは逆の意見を持つに至る。

てんやわんやして、保育園で散々な目にあった後に脱走をするのだが、そこで「遊び終わって壊れたり古くなったおもちゃが捨てられる」という現実をみることになる。持ち主が大人になっておもちゃの存在を忘れられてしまうのもまた結末だし、遊び続けられても結局はゴミになってしまう、それもまた結末。人間の死と同様、永遠なんてないという現実をこの作品ははっきりさせてしまう。

その後一行はごみ処理所へいくことになってしまう。前作との空港とは意味合いが違う。「自分たちの末路」というものを、いわば死にちかいものを、経験することになるのだ。それが、炎でゴミの山と一緒に焼かれるという寸前のシーン。場面は火山のようである。火山といえば、ロード・オブ・ザ・リング最終作で、死の指輪の誘惑の末路というハイライトシーンとして登場し、スターウォーズ最終作(ep3)では誘惑に負けたアナキンの肉体が燃え尽きるというシーンとして、火山がでてきた。今作もそれらの名作に劣らない「火山」のシーンであったのではないか。

宇多丸氏は、「商業アメリカ映画のなかで、主人公たちが、諦めるという描写をしたことがショックだった」と言っていた。主人公たちは途中まで確かに助かろうと頑張るが、それも無駄だと悟ってしまう。おもちゃたちが必死に動かしていた手を止め、他のおもちゃたちと手を静かに繋ぎ始め、ひとつになったおもちゃたちは、自らの「死」を受け入れてしまった・・・ようにみえる、それぞれの決意と絶望の感情をスクリーンから滲みでてきたのを今でも感じる。

そしてその「死」の描写があったからこと、最後の「生」の描写ともいえる、新しい女の子の家へ譲られるという(しかもそれに至るウッディの健気な行動に・・)シーンが本当に映えるのだ。それにアンディと最後に向き合うおもちゃたちは、動きまわったり表情を動かすことをしない、完全に静止された「おもちゃ」である。

一つ一つのおもちゃを、自分の想像力で広げたおもちゃの設定・・・それは今まで僕らが観ていたトイストーリーの作中で動き回っていたおもちゃたちと全く同じであること・・動かないけれど満面の笑顔のおもちゃたちか、アンディから女の子の手に渡されるシーンは、卒業式で一人ひとりに卒業証書がわたされ、そのバックで一人ひとりの生徒の思い出がフラッシュバックされるという日本のドラマ以上にシンプルな演出で、それ以上のドラマを物語らせる。そして、3の冒頭で全く遊ばれなかったおもちゃたちが、最後の最後になって、アンディが女の子と一緒に遊ぶ!・・最後に渡そうと思ってなかったアンディを、一度渋って、しかし最後には笑顔で女の子へ渡されたとき、アンディは悪い意味ではなく、いい意味でも大人になってしまったのだ。

おもちゃたちがスパニッシュダンスを踊ってハッピーエンドにみえる結末。しかし僕らは、結局最後の行き場であるごみ処理所・・死を見てしまった。どんなにこの新しい持ち主の女の子がいい子であっても、どんなにおもちゃが何代にも贈与され続けたとしても、結局ごみ処理所へ行かないことはない。死を免れることはできない。でもそれは絶望じゃないんだ。モノとしての役割を終えた彼らの働きは、元の持ち主たちとともに絶対にあるんだ。

おもちゃとしての存在意義に悩んで行動したおもちゃたちを見て、何かきっと心にの頃ものがあるはず。それは人間では描写できない特別なものだった。だから西部とSFというアメリカカルチャーをベースにしつつも、そこから一人ひとりのアイデンティティを見直すきっかけを与えてくれたトイストーリーに感謝感謝・・・としてこの感想を締めたいと思う。

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