土曜日, 11月 01, 2014

Keyの同人誌 "Key's Four Seasons" コミックマーケット87 にて。







Kanon , AIR,  CLANNADなど、

(VisualArt's)Keyの作品は、四季折々をテーマに綴られてきました。

今回はそれらの作品への考察やエッセイ、

また、他の音楽、文学、映画などに繋がる

架け橋となるような本を作りました。







"Key's Four Seasons"

価格:1000円

総ページ数:80

印字:モノクロ





内容紹介(ここではカラーで)




目次




著:Yusuke Makita (@YusukeMakita)

Keyとの出会い、
そして、とある少年との心温まるエピソードを書いてくれました。





著:眠れる兎6号(@nemureruusagi06

リトルバスターズのイラストと共に
大橋トリオの楽曲を紹介してくれました。
更に短編小説も書いてくれました。
(自分が訳したSuzanne Vegaの歌詞も紹介します






著:スプラウト(@sprout333

Rewriteをめぐる、評論です。

Rewrite批評の後半部分をちょこちょこ推敲しながら読みなおしていたのだけど、
これは作品がクレイジーなのか、
私が正気の沙汰ではないかのどちらかだと思ったわけで。2014年11月9日




著:スプラウト(@sprout333

CLANNADをめぐる、エッセイです。

CLANNAD 10周年。






著:こるすとれいんす(@colstrains002

麻枝准の音楽、東浩紀の家族論をひろいながら、

僕自身のKey作品への思いを書いた雑記です。





販売場所:コミックマーケット87 (東京ビックサイト)

2014年12月30日(火)最終日、3日目西む35B

サークル名「こるすとれいんす」です。

リンク先が地図になっています。



コミックマーケットのウェブカタログページ




委託販売の予定はありません。

販売部数も30部を予定しております。

売り切れてしまいましたらごめんなさい。

おまけに、本誌作成並に苦労した、

KeyのミックステープCDRをつけたいと思っています。



当日は他にも、

当日手伝ってくれる「トマトケチャップ皇帝」さんの描かれた小説や、

評論やライトノベル、文芸が掲載された同人誌も販売します。





"マイクロコスモス"

価格:500円





"Key's Four Seasons"に収まりきれなかったコピー本も販売します。(モノクロ)

価格:200円













音楽を聴き始めた時に、一つのアルバムが、別のアルバムへと、波紋を広げるようにどんどん繋がっていく、そんな体験があると思う。それは色々な本の連なる図書館だったり、俳優や監督(勿論音楽ら)で繋がっていく映画だったり、旅だったり、登山だったり、ゲームだったり、アートだったり、アニメだったり、漫画だったり・・なんだって言えることだと思う。音楽を色々聞き始めて10年くらい立ってしまったけれど、自分の中で数枚、ひとつの価値観として大好きなアルバムがあって、そこから波紋していく作品を散策していくというのが凄く楽しく豊かな経験だと思う。

そしてその支柱は、音楽なら音楽、映画なら映画と分断されていなくて、よりポップな作品こそ、その支柱と成り得ることが多いのかも知れない。思春期を超えた後に、その支柱となったもののひとつが、「CLANNAD」などの、Keyのビジュアルノベルゲーム群だった。

波紋と波紋が重なりあって、大きな広がりとなっていくという表現は、リトルバスターズ!の大きなテーマでもあるし、この本を通して、音楽や小説や風景や過去や、そんなことと色々繋がっていく手助けになってくれたらいいなと、そう思いながら・・


こるすとれいんす











金曜日, 9月 26, 2014

グラスリップ、最終回に寄せて。







学生の終わり頃から深夜のアニメ作品を見始めてから、気づいたらもう5年位経ってしまった。けれどもここまで先の読めない、重層的な小説のようなアニメ作品は初めてだった。感情と自意識に揺れる放浪息子や東京マグニチュード8.0のような作品もあった。ループものをセカイ系として昇進させた涼宮ハルヒやまどかマギカといった作品もリアルタイムで観ることが出来たけれど、それらとも違う。近年夢中になった一連のKeyの作品は、幼少期と自己の幻想との並行物語をとりあげるけれども、その「わからない」部分をはっきりと幻想として描写している。

けれども、このグラスリップ、表向きは爽やかな青春の夏物語という描き方をして、わくわくするようなナノライプの音楽に期待して可愛らしい絵のキャラクター達に、他の青春を描いた秀作なアニメを多くのファンは期待してしまったのだと思う。

しかし内容は全く違った。

震災直前に放送していたまどかマギカもまた、視聴者を裏切るような表向きなポップな絵と反する裏側のアバンギャルドと内向的で壮大な結末に、時代背景も相まって大いに盛り上がった。でもそれは、その絵の反転が分かりやすい色だったからこそのブームだった。対してグラスリップは一見何も考えずに見ても、まだ爽やかな夏の1頁というような受け止め方もできるし、元気な登場人物達は、前述したような作品群のように「わかりやすい」内向的な描写も、突き抜けたセカイの反対側を描いたわけでもない。ありのままの福井県の、あたり前の風景を描いたに過ぎなかった。だから、ある意味、筋がめちゃくちゃで特別な世界を描くのに中途半端に失敗した話題にもならなかったアニメとして、もう、隅に追いやられ兼ねているようにもみえる。

物語に必要な起承転結は存在しない。曖昧な、断絶的な登場人物たちの何気ない恋愛と群集劇の繋ぎあわせである。そしてそれは最後まで突き通された。これがある意味わかりやすい、実験的な切り取り方をしたら、とたんに大騒ぎになったのかもしれない。

テーマとしては、「時をかける少女」である、思春期の少女の特別な体験で、最終回の母親のセリフからもそれは伺い知れる。比較としては細田守監督の同名の映画(ショパンを使用している本作同様、この映画ではバッハのゴルトベルクが主題としてうまくつかわれている)および、おジャ魔女どれみの、同じ「ガラス工房」を舞台に使われた、飛び越えた先にある大人という現実への象徴的な一編がある。

また他の方もあげていたが、出崎監督作品のAIRにも(とある演出を抜きにしても)通じるものがある。あの作品を、原作をそこまで知らないままで素晴らしい脚本だったらしい、映像化されなかったバージョンの脚本が、もしかしたらグラスリップにおける最終回のようなものだったのかもしれない。


「駆」という存在に対して、幾らでも謎解きはできる。そのための種も、特に最終回には散りばめられている。けれどもそれはあまりにも何気なく置かれているので、さらっと流されて物語は終わってしまう。ある種の消化不良ともいえるし置いてかれて腹を立てる人も多いと思う。その謎解きをしていってもいいのだけれど、そういう切り取り方ではなくて、もう少し違うベクトルで物語をすくい取っていくと、とたんにその意味あいが趣きのあるものに変わる。それは絵画であろうと、短歌であろうと、音楽であろうと、同様である。そういった手助けある深みを持たせてくれた「グラスリップ」みたいな作品は、もう現れないのかもしれない。

火曜日, 9月 16, 2014

十代中頃への逃避行、海辺のカフカの話と、八ツ場ダムに沈む前の川原湯温泉の風景写真。



突発的に、何かのスイッチが入ってしまって、僕は自分の十代半ばの頃に無我夢中で走っているさなかに手にしていた音楽や小説を読みたくなってしまった。きっかけは十三年前の九月十一日の出来事であったり、今年のその翌日に突然発表になったU2の新作であったりしたりして、思いつきで当時聴いていた音楽のプレイリストを作って行くうちに、段々と、あの時の切羽詰まった、こっぱずかしい物をまた強く掴みたくなってしまった。仕事も連日残業をするようになったし、楽しかった夏も過ぎ去って空虚な季節の狭間で、自分を少しだけ見失いそうになっていたというのもある。



だから、2000年前後のレディオヘッドやコールドプレイ、CDを買いはじめたばかりの頃に何度も聴いたサジェントペパーやホワイトアルバム、ボブディラン、ペットサウンズなんかをiPhoneにつめて(本当はパナソニックのポータブルCDプレーヤーが良かったけれども)、村上春樹の海辺のカフカを持って、週末に旅行へいった。家を出るまで乗り続けた高崎線を、1度も先まで下った事がないことを思い出し、ついでという感じで八ッ場ダムに沈んでしまう前の川原湯温泉へ向かうことにした。



昼過ぎに家を出たために高崎に着いたのは日が暮れる頃で、そこで当時のバイト先だった電器屋の本店で赤いヘッドフォンを買って、すぐ見つかると思っていたホテルがどこも満室で、焦ってきた差中に大雨になって、最後は駅前にあるビルの、高めのホテルにチェックインをした。



移動の差中に音楽を聴きながらこんこんと、海辺のカフカを読んだ。読み返すのは数年ぶりだけれども、改めて読み返すと、村上春樹の作品の中でも特に、主張性の強い物語だったんだなと驚いた。感受性がよかったというより、精神的に飢えていた十代半ばの僕は、授業中の机の下かなんかで貪るようにこの本(など)を読んでいて成績も右肩下がりとなって、成績会議にかけられたり、親やバイト先や家庭教師かなんかの人間関係もきりきりしたり、学校とは別の自分の居場所を必死に作ろうとしていたり、兎に角ハードな頃だった。だからか生き方や考え方や、そういう主柱となる部分を、今思うと、だいぶ村上春樹によって形作られてしまったんだなと思う。



タイミング的に当時のロックを聞き返す前にグレングールドのCDをこれまたまとめて衝動買いしてしまった。旅行からもどり、祝日出勤をしてゆるゆると現実に戻る中で、本の終盤はグールドのベートーベンやバッハを聴きながら、海辺のカフカを読み終えた。この本を読んでいると、否応もなく自分の考え方わ相対的に肯定させられてしまう(良くも悪くも)。そして生活もまた別のベクトルにのせて、穏やかさを思い出すことができる。



そういう書き方を彼は、自分の頑固なまでの生真面目な正しい生活リズムのライフスタイルを貫いて、丁寧でドラマのない反復と、唐突に引きずり落とされる暴力と、飛び越えるように訪れる深淵や霊的や虚空な世界と、そこから目覚めて戻るどうということもない日常を、はっきりとしたエゴイズムを持って、自然と描き切っていて、その価値観に、兎に角、惹きつけられる。




今聴いているグールドの反復するバッハも、偏屈だけど自然な音の連なりも、どこか似通ってる。

火曜日, 8月 19, 2014

コミックマーケットに出店します(ライター募集中 11/21〆)


コミックマーケット87、当選しちゃいました。
2014年12月30日(水)最終日、3日目西む35Bです。

https://webcatalog-free.circle.ms/Circle/11612079

Kanon,AIR,CLANNADなど、
Keyの作品は四季折々をテーマに綴られてきました。
今回はそれらの作品への考察や、
また、他の音楽、文学、映画などに繋がるような
架け橋となるような、ガイドのような本を、
作りたいなと思っています。

実は同人誌をつくるのは生まれて初めてで、
勿論販売をするのも今度のコミックマーケットが初めてです。

Key作品と音楽とか、出会ったきっかけとか、
作品への評論とか、思い出だとか、
そういったなにか書きたいなと思う方がいたら、
是非Twitterでご相談いただけたら嬉しいです。

https://twitter.com/colstrains002


こるすとれいんす



木曜日, 7月 31, 2014

FUJI ROCK FESTIVAL'14 REVIEW!!!






アーケイドファイアがフジロックにやってくる!全てはそこから始まった。仕事も変わった。新しい職場の初任給で、フジロックのチケットを買った。初めてのフジロックを、ただアーケイドファイアが観たくて観たくて、1人で行くことにした。どんな格好で、どんな荷物でいけばいいのか、古着屋で靴やバッグなんかを買い揃え、こくこくとフジロックの日が近づいてきた。前日の夜はもう、20代半ばだというのに、まるで遠足前日の小学生のように、気持ちがあがってしょうがなかった。

(この記事は写真と動画でいっぱいで、とても重いですがご了承ください)

日曜日, 7月 20, 2014

twitter and note




最近はあまりブログを書かなくなってしまいました。そのかわりにnoteに小さな記事をかいたりしています。よろしければそちらを御覧ください。


土曜日, 5月 31, 2014

リトルバスターズ!プレイ感想と考察

Keyのゲームをしよう、と思うときには、いつもその季節に合わせて、しっかりと腰を据えてやろうと決めている。新年度も始まり、5月になり、Key 10th Boxに入っていてずっとやらずにとっておいた「リトルバスターズ(EX)」を、ようやく取り出した。

(ゲーム容量がDVD2枚なのでインストールに大変手間取った。古いネットブックでのプレイなので中のソフトの大半をアンインストールした)

「恭介が帰って来たぞ!」という軽快などんちゃん騒ぎからこの話は始まる。学園モノではよく入学式だの新学期だのという初春から始まることが多いけれど、気がついたら学校も始まり、登場人物ともだいぶ顔見知りとなっている。きっちりとスタート地点になっていないのが、これまでのKeyの作品とは違っていて新鮮。

5月、そして6月、梅雨、その季節感もそこまではっきりと示してはいないけれど、同時期にやると本当にその同じ空気感でいられるので、Keyに興味を持たれた方は是非とも、その季節にあった作品からプレイなり、アニメを鑑賞するなりするのがお勧め。

参考:メインの作中時期

  • Kanon:1月7日〜1月末頃
  • CLANNAD:4月14日〜(学園編:〜5月頃 その後、冬から春)
  • リトルバスターズ!:5月14日〜6月頃
  • Air:7月18日〜8月中頃
  • 智代アフター(CLANNAD後日編):6月28日〜9月頃
  • One 輝く季節へ(Tactics):11月30日〜3月頃

これまでも季節ごとにKeyのゲームをプレイしていって、すっかりと鍵っ子となってしまった。




以下、リトルバスターズの核心部分のネタバレ感想あり。



日曜日, 5月 18, 2014

『花火思想』限定上映と、岡林信康の私達の望むものはについて。






『花火思想』最初に知ったのはTwitterだったか・・宣伝に一生懸命な感じでそれで単館公開する夜に溢れたミニシアター映画の1つかなとなんとなく頭に残ってて、いつだったか渋谷を歩いてた時にこのチラシを配っててもらってたんだけど、実はこの映画2週間限定公開で、しばらく関東じゃもう見る機会がないがもう後の祭り。しかもしかも、見た人の感想が流れてきたら岡林信康の「私達の望むものは」使われてるなんて知った暁にゃ・・もう、Arcade FireのWake Up並みの必殺ソング、というより、自分の人生の中でこの曲ほど狂わされた曲はないくらいなので本当に見に行かなかったのを後悔してた。


今は関西地方を回っているとのことで、この映画のことは少し忘れていた時に、一日だけ東京でも上映するという情報が。でも直前までそこまで気持ちが乗っていなかったが、ツイートで、この映画がDVD化することがないだなんて事が流れてきて、これはもう行かなきゃ「サウダーヂ」の二の舞いになりかねねえと、本当は両親と会う約束をしてたのを取りやめて、慌てて出かける準備をして家を出て東中野へ。(チケット取れなかったらどうしようと焦ったためか、早く着き過ぎた)


◯映画の感想。

わかりやすい焦燥感だとか高揚感だとか、青春の突っ走るような躍動感だとかは、ある一点(はっきりいっちゃえばご贔屓の岡林が流れてのラストシーン)以外は実は希薄で、どちらかといえば冷めつつそれなりの愛想はもってしまっている主人公に、ずるずると引きずられるような映画でもあるし、初監督での低予算作品らしい、色々な粗さがめだつのだけれど・・所々のほっとする(ホームレスの堀田と始めてあう銭湯の湯船で吸うタバコのシーンだとか、川辺でしゃがんで才能の話をするシーンだとか)ところがよかったりしたした。

映画が終わった後に、監督らのトークイベントがあり、観客との質疑応答もあった。それらを大雑把にまとめた。

「ロックの定義とは」という質問に、監督曰く「ロックとは、下手でもやり続けることのこと。成功とは、やり続けた結果他人が評価されて出てくること。才能は存在しない。

2本目に上映した「へばの」のラストシーンについて>主人公が撃ち殺されるのも、元々は別の筋が通った脚本があったのだが、そのシーンはカットしたために、半ば抽象的なシーンのようになった。それは撮影中にヒロインの女性の人間感をみて、脚本にそごを感じたから。

両者とも、制作途中で元々のものに違和感を感じて、意図したところとは違うことを試した結果、より成熟したものとなったとのことだった。


音楽は自分で創造することじゃなく、ある種のジャーナニズム的な、何か降りてくるものを掴む作業だと聞いたことがあり自分もそう思っているが、映画においてもそういうことが起こったのかもしれない。(と思ってたら買ったパンフレットでも似たような発言をされてた)


◯岡林信康「私達の望むものは」と、映画のなかの「殺す」ことについて。

私達の望むものは
岡林信康 作詞/作曲

私達の望むものは 生きる苦しみではなく 
私達の望むものは 生きる喜びなのだ 
私達の望むものは 社会のための私ではなく
私達の望むものは 私達のための社会なのだ
私達の望むものは 与えられるではなく
私達の望むものは 奪い取ることなのだ 
私達の望むものは あなたを殺すことではなく 
私達の望むものは あなたと生きることなのだ 
今ある不幸に とどまってはならない
まだ見ぬ幸せに 今飛び立つのだ
私達の望むものは くりかえすことではなく
私達の望むものは たえず変わってゆくことなのだ
私達の望むものは 決して私達ではなく
私達の望むものは 私でありつづけることなのだ
今ある不幸に とどまってはならない
まだ見ぬ幸せに 今飛び立つのだ
私達の望むものは 生きる喜びではなく 
私達の望むものは 生きる苦しみなのだ 
私達の望むものは あなたと生きることではなく 
私達の望むものは あなたを殺すことなのだ 
今ある不幸に とどまってはならない
まだ見ぬ幸せに 今飛び立つのだ
私達の望むものは
私達の望むものは.....


この曲は上の歌詞をみれば分かるように、最初と最後で言ってることが反転している。
僕なんかも昔、岡林信康に熱を上げ、彼の曲を路上でがなり歌った事もあって、
この曲の最後はこの反転にならって

今ある幸せに とどまってはならない
まだ見ぬ不幸に 今飛び立つのだ

だなんて歌ったりもした。

この曲はいくつかヴァージョンががあるが、元のは二枚目のアルバム「見るまえに跳べ」に収録されてるやつだと思う。序盤は弾き語り調なんだけど、だんだんと畳み掛けるようになって、最後は歌詞の転換と一緒に銃声とともにぐわあっとがなり立てるカタルシスのある曲。

他には主に、日比谷野音での「狂い咲き」コンサートでの演奏と、はっぴいえんどをバックにつけた諸演奏。

狂い咲きのでは後半部分で歌い方がああ〜あ〜と叫び声と一緒にキートーンも変えて歌う。はっぴいえんどのは半ばハードロックというかパンクのように崩れて荒々しい演奏してるのが多くて、映画のもその中のひとつが使われた(バックと歌がずれてたりもしばしばのやつ)

そして「花火思想」でも、よく「殺す」というのをモチーフとして使われた。それが単純な殺人ということじゃなくて、社会の歯車になっていることや、自分のやりたい事ができない自分のことや、なんやは映画をみるなりそれぞれが思うことなんだろうけど、そういう象徴みたいなもの。

で、この歌の「殺す」ということも、単純な学生運動という社会性のものではないのは、恐らく歌を発表した当時でさえそうなんだと思う。

僕が一番好きなライブ盤は実は、社会からしばらく引っ込んでライブを休止してた後に出した「1973 Pm9:00→1974 AM3:00」ってライブ盤にもなったライブ。歌はフォーク性メッセージ性のある曲を封印して、ディランに影響をうけた3,4枚目の曲ばかりを(気がついたら洗練してる)はっぴいえんどをバックに歌って、最後にラップ調のファンクな「ホビット」を歌って終わるんだけど、その時のアンコールへの客からのあおりで「私達の望むものは やれよおらああ」みたいな叫びが随所から・・そこからまた出てきた岡林信康が歌うのが、ヒョロヒョロの日本語の「アイ・シャル・ビー・リリースト」(ザ・バンドで有名)それが、ほんとまた最高なんだけど長くなるのでとりあえず・・。

監督には、上記のことを踏まえた上で「私達の望むものは」を作品の繋がりや、「殺す」のモチーフについての関連を、しだらみだらになりつつ聞いてみた。

監督は「撮影中は岡林信康の曲を使うことは考えていなかった。元々70年代の音楽がふたりとも好きで、それで偶然映画を作った後に知って使った。元々は静かな曲だが、はっぴいえんどとやった荒々しいライブ音源が、劇にぴったしだと思ってつかった。映画では元々過去の回想シーンだったが全然面白くなかった。


京都で岡林さんに会う機会があり、その時、この曲は演奏としては底辺だが、君達の映画も技術は似ているんだろうし、そのままで転がれ、というような事を言われた。

みたいな解答を頂いた(うろ覚えなので間違ってるかもしれません)。







そういえばこの曲は「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」でも使われたんだっけ。

土曜日, 4月 12, 2014

改めて、CLANNADのDVDを見返してみて。





昨年秋に、まずアニメを最初にCLANNADという作品に出会い、文字通り一気に借りたブルーレイを観てしまってショックを受けてこんなブログを以前書いてしまったわけだが・・

http://kollsstrains.blogspot.jp/2013/09/its-wonderful-life-clannad.html

その後に、ゲームを全編やり、色々なCDを買い集め、自分でもCLANNADのDVDを全て集め、冬になって満を持してKanonのアニメやゲームをして、春になり桜が咲くまでにもう一度CLANNADを見返そう、そう思ってそのDVDを見ていって、ようやく今日全編見終った。桜はまだ辛うじて残ってるという感じに散ってしまったけれど・・



前回アニメを観て失敗したなと思ったのが、最終話の後に、中断なく連続で「番外編」「総集編」「杏編」と続くわけですが止めずにそのままそれらを観てしまったこと。ただその時はあまりにも結末近辺にショックを受けていたので、その余韻を崩す展開に救われた部分も多少・・なので今回は事前に(一期CLANNADのDVDが終わったあたりで)、学生時代の過去話である「番外編」と学生時代のアナザーストーリーの「杏編」をみて、アフターストーリーと直結している「最終話」の後の、事実上の最終回である「総集編」をみるという、まあ理想的な視聴をようやくできたという。


※以下、ネタバレあり




最終回。Aパートの、幻想世界と現実世界の邂逅、そして12月24日に戻った後の別の家族3人としての生活が描かれる。そしてBパートに、漫才のような風子と公子のやりとりが長く続き、最後に、奇跡が起きた、あの病院の隅の木へ風子が駈け出して、静かに不意に物語が「終」となる。

総集編。汐に朋也が自身の渚と学園時代、そして結婚後の語りがけをするという形で過去の話が振り返られる。その中で、渚なき朋也と汐の物語も「間違いなく現実だった」と肯定して、話の最後に、最終回での「木」での、小さな出会いの出来事の続きをやって「おしまい」となる。

賛否両論の最終回も、アニメという難しい媒体だからこそ、限りなく誠実な作りだったと思う。「奇跡」について、この後も何度も繰り返し平行世界を経験しなければ得られないゲームでの体験であったり、今年初めにあったゲンロンカフェでの馬場社長による、単純な「奇跡」という受け取り方への否定であったり、今作のような報いなき「智代アフター」だったり、色々知った上で改めて、アニメCLANNADの結末の奇跡は、単純で安直で夢オチのような逃げ方のはずがないなと受け止められるようになった。そもそも最初にCLANNADをみたときから、自分はフランク・キャプラ監督の作品と同様にメッセージを受け止めてたから、そんなに否定的な気持ちではなかったけれど、どうせなら現実として汐との二人親子の幸せを見たかったと思う気持ちが強かった。

それにしても、良い作品だなと思う。今回はファーストインパクトのような前のめりさはなく、原作の展開も思い起こしながら、またDVD1巻づつに収録されているキャストのインタビュー映像も挟みつつ見ていったので、話を咀嚼する余裕もあった。もうこの大河ドラマのようなアニメ作品が再び世に出てくるのは難しいと思うし、「街」という地域社会や地方都市の閉鎖感みたいなのもCLANNADの主題のひとつだけれど、まさにいま、「サイタマノラッパー」なり田我流の作品なり「ここは退屈迎えにきて」なりアーケイド・ファイアのフューネラルなり、ちょうど同時多発的に00年の半ばや終わりに登場してきた。そして「出産」描写は、自分が最も好きな紛争SF映画の「トゥモロー・ワールド(Children of Men)」での最も心動かされるシーンとも重なり、家族や奇跡(そして街の変化なんて)そのまま(前回のブログ記事から引っ張ってひつこいけれど)「素晴しき哉、人生!」を連想させられたり、CLANNADの音楽の幅広さ(公式でのアレンジアルバムやボーカルアルバム含め)。色々書いていて止まらないくらい、自分と色々繋がることができた稀有な作品だった。

追伸:興味が興じて生まれて初めて同人の一編も書いてしまった(Colstrains名義)こちらのアンソロジー誌に掲載予定・・http://ayuket.com/clannad10th/anthology/antholo_plan.html

月曜日, 3月 10, 2014

2014年 福井旅記録 2 , アフターストーリー





2月23日 日曜


朝、気付いたら僕はこの家に慣れてしまったのか、初めはいそいそと早く起きていたのだけれど、段々と起きる時間が遅くなっていった。

ただ、昨日の夜カレーライスを作ることができなかったので、朝食くらい拵えようとトーストを焼き、卵とソーセージを炒め、甘いコーヒーをいれた。

Mさんの友人のジミーさんが来られた。Mさんが以前カメラをやってた時の写真を見た直後だったから、こざっぱりとした黒髪にいきなりイメージが変わる。ジミーさんもまた時間があるということで、東尋坊の方へ旅をしようという話となった。

1枚目。Hermeto Pascoal - Zabumbe-Bum-A


最初に手打ち蕎麦屋さんへ。自分は盛り蕎麦を注文。つなぎを使っていないというこだわりだけあり、何もつけなくても美味しい蕎麦ははじめてかもしれない。

2枚目。Little Richard - Very Best of Little Richard


続いて東尋坊へ。ようやく観光地らしい場所の観光となるが僕は東尋坊という名所すらあやふやだったけど自殺の名所と聞きあゝと思う不届き者である。

最初の土産物通りはとても活気づいていた。イカめし食べたりお土産買ったりするのは帰りでいいかと通り抜けてしまうが、結局寄らずに戻ることになるだが。


打ち捨てられたような古い建物の先に観光タワーがあり、館内もとてもレトロでよい感じだが、東京京都タワーなどの塔と比較するようなポスターが色々と貼ってあったのがまあ寂しげでもあった。有料だったので登らず。


東尋坊の絶壁。折角なので端の方まで進んだ。以外と足が竦んでしまう時も度々。端の方に辿りつき、後から来た男性に三人の写真を2枚撮って貰った。


観光客の多い岩から、自殺願望者が向かう左の岸へ。迷ったら電話しなさいという命の公衆電話にはテレホンカードと新約聖書も。歌人もその地に歌を色々残したような、風情あるところであった。


車に乗り、雄島へ。赤い大きな橋を歩き渡り、大湊神社の鳥居をくぐり、右回りで島を一周した。周りの木々もぐねぐねと曲がって、本土とはまた違う雰囲気だった。写真や動画を取りすぎて、この辺りからどんどんデータ整理するはめになりつつ、じっくりと散策を楽しんだ。東尋坊に似ている岩畳があったり、小さな灯台や小屋や神社があったり。


3枚目。Milton Nascimento e Lô Borges - Clube da Esquina


戻ってきてコーヒーでも飲みたいね、ということで、雄島からの下り坂にあるカフェへ。お洒落な、小さな軽井沢のような(行ったことないけど)。

車を出して東尋坊を後にし、途中でジョニーさんともお別れ。


だんだんと日が暮れていく道路を進んでいく。

4枚目。Late Night Tales: The Cinematic Orchestra

日も暮れて、橋を渡って、目的地、勝山の左義長まつりへ。駅裏の駐車場へ駐車し、遠くからお囃子が聴こえる日本らしい高揚感の中、まつり会場へ。橋を歩く途中、どんと焚きの準備をしている姿も。


最初に目に付いたのは、櫓の上でお囃子に合わせて順々に踊る子ども達の姿。器用にくるくるとばちを回し、舞い、太鼓を叩いて交代していく。しばらく感心して見た後に屋台通りへ。


通りは、地元の学生と思われるような比較的若い人達で賑わっていた。途中鯛焼き屋を発見。うぐぅと言わずとも鯛焼きは焼きたてに限るのである。


櫓は一箇所でなく、あちこちに立っていて、同じ曲なのにそれぞれ特色があるようだった。Mさんと途中で別行動をし、お好み焼きを食べてぶらぶらと屋台通りを歩く。


LINEで連絡を取り合い櫓で落ち合う事になったものの、目的地とは逆の方に進んだらしく中々会えなかったものの、色んな櫓を見ることができた。途中偶然暗い細道でMさんと遭遇。


終盤の櫓のお囃子は、特に道から外れた場所のそれで人も疎らなのにヒートアップしていてやたらBPMも早く、素晴らしきクラブミュージックと化していた。

そろそろ、どんど焼きの時間が迫ってきたので、最初の会場へ移動。道ゆく人々の持つ竹槍のようなものはなんだろう。

会場へ到着。全体が見えるように坂の途中で場所取り。だんだんと人も増えてきた。明かりが落とされ、澄んだ冬の空に星がとても明るく光っていた。


神社から聖火ランナーのよう・・ではなく、30人くらいの集団が連なって歩いてきた。彼らが下り降り、それぞれの燃やす櫓へ待機。


事前の合図もなく、時間になり合図の花火があがったと思ったら炎の柱が高く高く立ち並んでいて、辺りは夕焼けのように明るくなった。


もっと近くで見ようと、坂を下り、Mさんと別行動で辺りをぐるっと回ってみた。あの本能的な、火を見ると興奮してしまう人の心はなんなんだろう。

このどんど焼きもまた、地域毎の火になっているらしい。ある所では中々火が燃え広がらないので、立ててある竹を倒したり、ダンボールを投げ入れたりしていた。


合図がはいり、火の近くに寄ってもいいというアナウンスが。一部では興奮の音頭の掛け声も。囲っていた竹槍集団がいつの間にか火の回りに。槍を火の元に。何をしてるかと思ったらどうやら餅を焼いているという。ビジュアルでは、燃え盛る炎に竹槍集団と、まるでこれから一揆でも起こすのかという気迫なのに、なんとも温和なまつりなのであった。


散々iPhoneで撮影をして、火も落ち着いてきたところで会場を後に。Mさんは、福井県民でもこの祭りは行かない人も多いし侮っていたけど、この左義長まつりの、特にメインのお囃子の面白さったらなく、また来年も行きたいと言っていた。


明かりなき道を進み、福井市へ。夜に地元の味8番ラーメンを、味噌タンメンバター入りですすった。


Mさん家へ戻り、ジョージハリスンやニールヤングを聴きながら、今回の福井の旅の事を話し合った。名残り惜しいながらも、行きたいと思っていた所をトラブルなく大方回ることもでき、美味しい名産品や日本酒なんかも色々と味わうこともできた。また天候もとても恵まれた一週間だった。


翌朝早朝、数日間お世話になったMさん家を後にする。車に乗せてもらい、高速バス出発の福井駅へ。

そして、家に何日も泊めていただき、色んな案内や紹介をしてもらい、一緒に旅をし、何人かの友達も紹介してくれ、音楽もつくったり、聴いたりしたMさんとも、しばしの別れを。本当にありがとうございました。


日中のバスなのに、行きの深夜バスより混み合っていた。行きは右前の席だったが帰りは中央席だった。右はトイレだった。長時間の乗車だからと分厚いケルアックのオリジナルのオン・ザ・ロードを読もうと思っていたけれど、Macを広げて日記を書いていたら、思いのほか時間がかかってしまい、新宿到着ぎりぎりまで日記を書き続けていた。

馴染みの東京、埼玉、地元の風景へと、どんどんと戻っていく。重い荷物を引きずり歩き、ようやく一週間ぶりの自宅へ。夕焼けが綺麗だった。出かける前に片付けていたかわからないけれども、行く前よりも別の場所のような、新鮮な気持ちに。

整った穏やかな街並みと、その先に佇む山々の、あの福井の風景が、やっぱり心惜しい。

それでも明日からまた新しい生活がはじまる。





職業訓練の合格通知を受け取って束の間喜んだ、翌日からの生活は、その福井での楽しかった日々とは暗転の、特にきつい数日間となった。すぐに貰えるものとあてにしていた手当が四月末まで貰えない、それなのに3月頭に支払わなくてはいけないクレジットカードの請求額は、過去最大の金額で、頭が真っ白になった。付け刃の如くやった肉体労働では、何段もある引っ越し先への荷物の往復で社員に檄を飛ばされ、文字通り力尽きるまで働いた。学生時代から、膨大な時間と労力とお金と思い出が詰まったCDや本の大半を手離さなくてはならなくなった。友達に誘われた飲みの席でも、一銭もお金を出すことができなかった。暫くはライブも映画もみられず、音楽を買う事もできそうにない。自殺のドキュメンタリー映画をYouTubeでみて泣いたりもした。春のプレイリストも、人と共有することを意識しない、プライベート色の強いものとなってしまった。


気がついたら、3月になった。


結局クレジットカードは、半分をリボルディング負債にして、残り半分を日雇い労働とCD売却費で何とか絞り出す事に。家賃と諸税金も電話で相談し翌月の手当てがはいった段階で払えるものを払っていく事に。学校も始まり今日も怒られつつもしがみついて行くしかない。肌寒い春の始まりの時として・・

月曜日, 2月 24, 2014

2014年 福井旅記録 1





2月18日 火曜


5日間の衣服やタオル類、MacBook、ハードディスク、それに持参物として数枚のレコードと酒瓶や本を数冊。それらの荷物でパンパンに膨らんだリュック2つに大きな紙袋1つに手提げ袋も持って、ふらふらになりながら、数日間部屋を開ける為に引っ越し以来1番片付けた自分の家を出た。

ずっと前から準備をしていた今回の旅だったのに、深夜バスまでへの電車の乗り継ぎがまた時間ぎりぎりとなってしまった。晩飯も、途中の駅で慌てて買った梅のおにぎり二つだけだった。

東京駅下車。初めての深夜バス。数台の高速バスが止まっているバス乗り場の駐車場まで歩いていき、初めは見つからないんじゃないかと少し焦ったが、すんなりと目的のバスをみつけて乗車することが出来た。出発5分前。

3列乗車のバスにはそんなに乗客もいなくて、隣と後ろの席にも人はいなかった。仕切りのカーテンを閉め、座席を一番下まで下げて、iPhoneをつかって保存しておいた、麻枝准が酔いながら、友人と数時間に渡って昔のバンド時代や開発時のメールのやり取りを紹介していたラジオ音源を聴きながら道中を過ごす(聞くのは2度目)。真っ暗になるためにiPhoneをいじることはできないが、途中暇なので、行き先のMさんにLINEで現在位置を1時間毎に報告していた。



途中横浜のパーキングにとまったときに、(Kanonの真琴にちなんで)肉まんを購入。一応横浜中華街の名物ということで、肉汁滴り美味しかった。

夜3時頃の休憩を除き、4度ほどあったパーキングでの休憩では毎回降りてしまった。短期間寝ては起きての繰り返しで、あまり眠れたという気持ちにはならなかった。ラジオが終わり、今度はウォールフラワーの英語朗読音源を聞く。

22時30分 東京駅 発(King Krule - 6 Feet Beneath The Moon)
22時40分 東京都渋谷区神泉
23時00分 東京都世田谷区大蔵(麻枝准の殺伐ラジオ第二回)
23時20分 神奈川県川崎市宮前区 パーキング
0時00分 神奈川県足柄上部山北町
0時45分 静岡県富士市
1時00分 静岡県静岡市 パーキング (American Football EP, LP)
2時00分 静岡県掛川市
3時50分 岐阜県養老郡養老町 パーキング(The Perks of Being A Wallflower Audio Book)
4時30分 滋賀県長浜市
5時00分 福井県敦賀市(ミツメ - ささやき)
5時45分 福井県越前市(I’m Here OST)
6時00分 福井県鯖江市(星野源 - エピソード)
6時20分 福井駅 着



2月19日 水曜




朝5時頃になり福井入りをする辺りに完全に目が覚める。
朝6時20分頃に、福井駅に到着する。
事前に連絡をとっていたので、車でMさんが迎えに来てくれていた。
待望の福井での再会に喜び、まずはMさん家へ荷物を置きに行く。
Mさん家では最初に目についたいたる展での(Kanonの)あゆのポスターを筆頭に、
音楽CDや漫画などが色々と置いてあった。大きなテレビにオーディオもちゃんと設置されていた。
僕らはそこでガイドブックや観光マップなどを広げ、福井の名所を色々と教わりつつ、
今日どこへいこうかと相談した。
第一に目指す所を、小浜方面のAIRの舞台でも使われた「空印寺」まで進み、
そこからまた戻る途中で寄りたい所に寄り、レコード屋へ行き、帰ってこようと決めた。
車中に聞こうと数枚のCDを選ぶ。

朝8時頃に出発。朝食に松屋の納豆定食を。
そこからまた出発し、高速道路に乗る。1枚目はLiaのベスト盤Disc1。


お昼ごろに人魚伝説の像のある海岸沿いに到着。冬の日本海。2枚目はBermei.IzanawaのAIRアレンジCDなど。



寺が連なる一帯で駐車。車を降りて道中の寺を色々と散策しながらしばらく歩き、
目的地の一つである「空印寺」に到着する。


洞窟の前にある人魚伝説の説明文にて、
「800年前に人魚の肉を食べた人が、いくら年を重ねても若い美貌のままでいた。
 長寿である為に知識が豊富となり、各地へ趣き農作や建築の技術提供をし、
 各地転々と旅をして数百年が立ち、最後の土地として現在の空印寺のほこらに入り、
 長寿を全うした。人々はこの人を神と崇め親しんだ」



人々に悪魔と罵られるAIRでの翼人伝説とは表裏があるものの、色々な共通点に気がつく。
各所を写真に収め、記念に二人でも写真を撮る。
空印寺を後にし、道中の(AIRにでてくる小道のようなところの)自動販売機で、
偶然にもパックでなくどろり濃厚ではないもののピーチジュースが売っていたのて購入してしまった。


凍えそうなのに冷たい缶ジュースを。


続いて、国宝の明通寺へ。一時的にちらついていた雪が強くなる。13時頃。
入り口に若いお坊さんのガイドを聴きながら寺の境内へ入り、正座をして仏像や塔の由来や説明を受ける。
日本で述べ伝わる西遊記の河童は、実際には印度の神だった話や、塔というのは実際には塔婆であることなど。


仏像は見事であり、質素な色合いながら美しい建築の寺や三重塔を色々と見られて非常に貴重な体験が出来たが、
境内で説明を受けていた時に雪はやんでいたものの、非常に寒かった。ただ、冬の寺院はとても風情がある。



15時頃車で、「中二病でも恋がしたい」というアニメの舞台の一つであった、東美浜駅へ赴く。
3枚目はArcade Fire - Reflector。
小さな駅で車で入るのに苦労をする。アニメで使われたと言われなければ通り過ぎる、小さな田舎の無人駅だった。



だがそこでもファンによるメッセージノートが置かれていたり、ポスターが貼ってあったりしてあった。
埼玉からきた自分も一言だけノートに。


30分ほど移動して、ヨーロッパ亭という昭和の雰囲気が漂うレストランに。
名物のソースカツ丼をセットで注文。


薄い衣のカツが3つ、キャベツもなくそのままご飯に乗ってあり、
そのうえにどろみのないソースがかかった丼。やはり、カツがジューシーで美味かった。
これは福井に来る度に食べなあかんなと思わせる逸品だった。


食後に車で海岸沿いを通って戻るルートを。4枚目はSADEのベスト盤。
遠くにフェリーが見え、だんだんと沈む太陽が海辺に映ったりと美しい風景だった。
またその海辺とSADEの音楽も相性が良かった。
(ベスト盤の割に知っている曲もなく、似たような曲が続いたような印象も・・)
道は海沿いの山道から、漁師の町を通り抜け、だんだんと福井市へと。


18時半頃、福井唯一のレコード店らしい、フラメンゴレコードに到着。
2階建ての建物だが店舗は2階部分のみ。元々1階部分も経営してたが縮小のため・・
店舗は一部のジャンルに特化した店ではなく、
おおよそ80年代までのレコードがバランスよく価格も標準的におかれていたような印象だった。
店内ではソウルやジャズが流れていたような気がする。
ひと通り見て、キース・ジャレットの3枚組が1280円で売っていたのをみつけたけど国内盤だし他でも買えるだろうとスルーして、謎のギャング・オブ・フォーの12インチ280円と、新品のベル・アンド・セバスチャンのサウンドトラックのレコード合計2000円くらいで購入。

最後にスーパーに寄り惣菜や酒を買い、Mさん家に帰宅。
買ってきたMさんのレコード(歌謡曲や謎のアイドルLPなど)を聴きながら夕食。
その時に自分がMさんの誕生日が近かったということもあり持ってきたプレゼントも披露。
スフィアン・スティーヴンスのミシガン、THEO PARRISH'S BLACK JAZZ SIGNATURE
のレコード、
(Kanonの舞台で使われた)横浜元町のスーパーUNIONで購入した富士山麓ウイスキー
(本当は麻枝准氏のラジオにちなんで山崎が買いたかった)、雪うさぎ時に使った赤いビー玉、
MOTHER2ネスのフィギュア、文庫にバラける聖書、村上春樹訳ロング・グッドバイ文庫他。

持ってきたDVDからJohn Lennon Live 1969 のアバンギャルドな演出と、
おジャ魔女どれみドッカ~ン! 第40話「どれみと魔女をやめた魔女」を観た。
彼の最高傑作は未だにこの話と、デジモンアドベンチャーTVシリーズで唯一手がけた演出回の2本なんじゃないかと思っていたりするので東映は是非とも彼の演出回をまとめるべきである。

その日はウイスキーでベロベロになり就寝。


2月20日 木曜


9時頃起きた僕は、家主のMさんがまだ寝ていたので、シャワーを浴びて、
先日かった食パンをそのまま1枚チーズと一緒に水で食べて、
浅草ふくまる旅館という人情ドラマをなぜかみて(女将さんと昔恋をしていた男が地元の活性化のためにフリーペーパーをつくろうと企画したはいいものの、印刷所では話が通らずトンズラしようとしたところを捕まって、結局人情に負けてこれから頑張ろうみたいな話で、今どき珍しいようなドラマだった)
PS3でワンダと巨像をプレイして1人目の巨像を倒し2人目を途中まで取り掛かったものの段々と根性負けしてた時にMさんが起床。
仕事に出るMさんと一緒に家をでて、自分はぷらぷらと福井市を歩く。
Mさん家の近所は、道が完全に縦横均等に並んだ広い道で、店も駐車場をおいた大きな店が多く、
道を過ぎたらそこから先は何もないようなイメージの、完全な車社会の土地な感じだった。
遠くに薄っすらと山々が連なっているのが全く関東平野とは違ったイメージ。
ドン・キホーテまで歩いて(電車まで運んだ荷物が多くて苦労したので)荷物を運べるカートと、
洗剤類を購入(意外とお金をつかってしまった)。
帰宅して昼食にMさんのお母さんが作られたという惣菜と、即席ご飯と、カップ麺の昼食をとる。



その時に、「シベールの日曜日」という映画のDVDを観る。
記憶をなくした青年が、父親に捨てられて孤児院に入る少女と出会う。
やがて青年は少女の父親と偽って少女と週に一回、公園で会うようになる。
青年には記憶を失う前からの恋人もいて、彼女に少女の存在がばれないように、
青年は・・・
というようなロリータな恋物語だった。記憶をなくしたきっかけの事件、
記憶が無いからこその少年のようなピュアな行動も、冷静になればあれは少年の心をもった青年であったのに、
別の子どもを殴ったりあるものを盗んだりするような行為は、やはり異常なものにもみえてしまう。
そして少女を性的な目でみていないのに、外目からは何もわからない。
見終わった後にデッサンをした。それなりに目のところがよくかけた気がしたけど、
全体を見たらババ臭くなってしまった。
ヒロインの少女は確かに天使だった。

映画をみて、グレン・グールドのバッハのCDを延々流しながら、風呂掃除をした。
関係ないけど村上春樹が書くような単純労働の雪かきや草刈りは中々大切なことだと思う。
CLANNADや智代アフターの岡崎朋也が一人黙々とやった草刈りや整備作業も上記のオマージュなんだろうか。
気合を入れすぎたあまり一部塗装が剥がれてしまったのはご愛相である。

気がついたら20時になっていた。そろそろ帰宅するという連絡が。
夕食は鍋をつくった。
買ってきてくれた日本酒が美味かった。

途中でYさんというMさんの友人も来客。残念ながら車できたので乾杯できず。
それでもアニメや音楽の話題で大いに盛り上がった。
またウイスキーのためにベロベロとなる。


2月21日 金曜


この日はMさんの出社時間も早く、自分も早起きをして、シャワーを浴びる。
Mさんが出かけた後、朝食に昨日の残ったご飯と鍋を雑炊にして食べる。

その時に、小津監督の30年代の映画「一人息子」のDVDを観る。



貧乏な農村、それなりの成績を持つ小学生の息子が、母親に黙って進学をしたいと勝手に教師に伝えた。
その決心に先生は感心し、それを許した事を先生は母親に褒めたのだが、当の母は何も知らず。
一度は息子を叱るが、工場で労働している時に気持ちが変わって、
自分の生活はどうでもいいからお前は進学し、東京へ行き出世しなさいと泣きながら息子を許す。
時がたち、息子も東京で職に付き妻を持っていた。
息子に会いにきた母親は、息子と一緒に色々と観光を楽しんだが、
息子自身偉くなっているわけでなし、夜間学校の教師としてほそぼそと生活していたので、
やがて借りた金も尽きる。
「東京へ行った所で人が多く、誰もが出世できるわけじゃない」と弱音を吐く息子に、
全てを投げ捨て送り出した母親は・・・

という映画で、仕事を辞めて勉強をしようとしている自分と、それに非常に心配をしている両親の姿が重なり、
中々思うところができた映画だった。

晴れていたので洗濯をした。

午後は音楽をつくろうと色々機材を並べるもののうまくいかず頓挫。
CLANNADのブルーレイをみたりする。

帰宅したMさんは、カニなど、福井の名産を色々と買ってきてくれ豪華な夕食になった。
この日は「東京マグニチュード8.0」の総集編を鑑賞。



個人的に深夜アニメでは1番思い入れがある作品であったが、特別故に何度も見返す事ができなかった。
だから放送当時以来の鑑賞だったわけだが、中番のとある演出には総集編ながらはっとさせられ、
一人だったら間違いなく号泣していたが流石に堪えた。
ありのままのような親や兄弟に苛立つ女子中学生の描写はアニメではめったにないリアリズムだからこそ、
途中からの彼女の演技がたまらないものがある。


2月22日 土曜日


昼近くまで寝坊。起床してMさんがおいて行ってくれたカニの弁当を食べて、
昨日の残りを使ったお茶漬けをつくって頂く。

PS3の「風ノ旅ビト」をプレイする。



1周めでいきなり雪山からのステージに入ってしまったらしくあっという間にエンドロール。
2周めは最初ではないものの途中のステージから初められた。ベテランらしい白色のキャラクターに導かれてスカーフを長くしたり、明かりを灯すのも半分ずつやったり、見失ったらお互いまったり合図しあったりと、かなり気恥ずかしいコミュニケーションをとりながら最後まで辿り着く。
ポストクラシカル調の音楽がまた良い。文字が全く出ず(途中ジャンプを除き)シームレスに世界が続くのもいい。自然の脅威や尊厳や畏怖もあるのも「ファンタジア」を連想とさせるような神秘的なものだし、とにかく相手が愛しく思えてしまうのがやばい。

午後はカレーをつくろうと閉じこもりを脱してスーパーを探す。
買い物をして帰ってくるともうMさんが帰って来ていた(自分が鍵をもっていたので家に入れなかった)
日も暮れる前に前からいこうといっていた公園へいこうと、家に戻り買い物したものを置いて、
急いで車へ。



KanonやCLANNADでモチーフとして登場した大木を連想する公園の小さな広場へ。
かげりゆく夕日も相まって何だか神秘的に見えた。
そして、ものみの丘を連想(むりやり)するような、古墳の丘へ。


そこから見下ろす町並みの景色もまた夕日で美しく染まっていた。
素敵だと言っていた図書館は早い閉館で残念ながら中はみられなかったが、
そのままMさんが子ども時代をすごした公園や遊具施設のあるところを散歩する。
幼児期のノスタルジアの共有はなかなか人とすることが出来ない中で、
そういったところをめぐることが出来て、こういう事は観光地では出来ないことで、
今回の福井の旅らしい、旅ができたんじゃないかと思う。


夕食はMさんが一時期通いつめていたコーヒー・イン・ハーフというお店のチキンカレーを食べた。
ひとくせありそうなマスターの出すカレーのスパイスは相当こだわってつくっているんだなと分かる味だった。
古いレコードが店内に閉まってあるそこの空気は中々あるものじゃない。
今度Mさんがまた埼玉にこられ時間ができたなら、北浦和のカレー屋さんに連れて行きたいなと思ったりした。

家に戻ってきたら、音楽のセッションをしようと機材を並べる。
途中でMさんへ仕事の電話がかかり、忙しく色々取り次いでいたので僕は彼の進めてくれた漫画を読む。
電話が終わり、初めはキーボードをシンセのように自分が遊び、彼はパッドでドラムを打ち、
数年前よくシンセソフトでAmbient曲をつくったようなことを、偶然にもGarageBandでこなせてしまった。
続いて、ちゃんとメロディのあるものをつくろうということで、
自分がエレキギターを爪弾き、彼のドラムに合わせてフレーズをつくってそのまま録音をした。
そして、それにキーボードでメロディを大雑把につけてみた。
セッションのメモのようなものだけれど、ギターとドラムが盛り上がる部分が偶然にも一致したりと、
中々面白い物ができたんじゃないかと思う。
もう一曲、彼がギターを、自分がドラムパットで一曲セッションをした。

曲作りをして、また二人で乾杯をした。
こんなに楽しいと思える時って早々ないんじゃないだろうか。
酔いが回り、気がついたら僕はソファーの後ろに回ってジャズのビートに合わせて踊っていた。

明日が遂に、最終日である。







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