月曜日, 4月 18, 2016

2016年4月18日の日記

缶コーヒーって、CMではスーツをきたサラリーマンが駅やオフィスでぐっと飲んでいるというビジュアルが多い気がするのだけれど、実際、僕にとっての缶コーヒーというのは、どうしても作業着と運送車の缶ホルダーと、汚れた地図と擦れたラジオを連想する。トラックやハイエースとかで運搬をしていた時に欠かさず飲んでいた気がするから。
健康診断からオフィスに帰ってきて、引き出しに入れっぱなしにしてあった缶コーヒーのピルを開けた時、ふと、そんな事を連想した。オフィスでコーヒーを飲んでいる人の多くは、コンビニで売られている淹れたてのコーヒーの紙コップを飲むか、もしくはブラックコーヒーのキャップ付きの缶コーヒーを飲んでいる印象がある。後者に関しては、単純に自分の上司がいつもそれを飲んでいるだけ、ではあるのだけれど。

朝、オフィスには人が全然いなかった。偶然が重なって、今日席にいる社員がほとんどいなかったからだ。今日から、新しい画面の製造にはいったのだが、ほとんど人がいない中では、中々仕事に集中することができなかった。つい、先日の問題の事をうじうじと考えてしまう。

昼休み、健康診断前なので昼食がとれない(朝ごはんも食べていない。本当は早起きをして松屋の朝食セットを食べたかったが寝坊していつもの電車となってしまった)。健康診断の実施場所へ向かう最中、駅に向かう途中にある書店で、新しい訳のプラトンの「饗宴」の文庫本を1000円で購入した。先日読み終えた、ウエルベックの「ある島の可能性」の劇中に登場をしていたので、気になっていたのだ。アマゾンのレビューによると、訳が新しいものは、すらすら読みやすくなっているとあったので気になっていた。
フランソワのドビュッシー(3枚目)を聞きながら、(診断受付まで時間があるので)新宿に下りてディスクユニオンのクラシック専門館に寄り道をして、バッハのフーガの譜面(購入するまでそれがフーガの譜面だとは思わなかった。まぁ300円だったのでそのまま購入した。ゴールドベルク変奏曲の譜面を欲しいのだが見当たらない。平均律グラヴィーアはやたらあるのはなぜだろう。)ピエール=ロラン・エマールによるフーガの技法のCDを購入した。
ピエール=ロラン・エマールは、とあるテクノミュージック専門サイトの音楽ライターが推薦されていたので気になっていた。先日ツタヤ渋谷にて100円レンタルがされていた日、大量にキースジャレットやらジスモンチやらチックコリアやら、あとカエターノヴェローゾのCDを借りた。名盤といわれていたものの、なぜだかまだ聞かずにいたアルバムも沢山あるので、どうせ100円なのだからと、その類のアルバムを借りまくったのだ。それでも、総額がレコード一枚と大差ない金額(3000円弱)なのだから参ってしまう。その中の一枚に、エマールによるフーガの技法を滑り込んでいた。
先日、ウエルベックや「千の顔を持つ英雄」の上下巻を読んでいたので、長らく放置をしていた、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の最終巻「鳥刺し男編」を読み返していた。テレビの奥の虚構と、十代の虚構と、都市の虚構と、半世紀前の戦場という虚構とが様々に入り組んだ、彼の作品の中でも少しややこしいながらも、独特なバランスの上に成り立つ(最高傑作といってもいい)名作であり、帰りの電車の中で終盤の展開を読んでいたときは、久方ぶりにページがとまらなくなって、帰り道にそのまま家に帰らず、駅前のケンタッキーへ入り、そのまま本に没頭をした。そのときに聞いていたのが、前述のエマールによるフーガの技法だった。淡々と迫るような、しかし圧倒するようなその演奏が、文章と相まって、中々強烈な体験をする事ができた。

話を今日のディスクユニオンに戻す。店内は、既に退職したと思われる年配の男性で、平日の正午なのにも関わらず賑わっていた。エマールのほかの作品があればよいなと思って探していたのだが、結局みつけたのは、フーガの技法だけだった。中古国内版で1400円位だったが、迷うことなくレジへいき、カードを出した。
健康診断は大久保で行われる。新宿から直接歩いて向かった。昼間の新宿歌舞伎町を抜けていったが、やはりあそこは日本の性産業の巣靴ともいうべき、異様な場所だった。大久保が近づくにつれ、看板の言語がだんだんと韓国語・中国語が増えていく。
受付開始の調度あたりの時間で到着。都内の多くのシステムエンジニア達が同じ診断服を着て、待合室で座っている。待っている間、ダコタクリストフの「昨日」の続きを読んでいた。しばらく前に、唐突にこの本が読みたくなり、文庫本を購入していたのだった。
診断自体は思った以上に良好な結果のようだった。体重が50キロ後半だったのが、50キロ前半へと落ち、視力も0.5から1.0とあがった。なぞである。
「昨日」にて、工場へ勤務する主人公の心情と、会社へ通勤する自分の心情とが重なる。しかし主人公には思い人がいるが、自分にはいない。自作の小説と、物語とが入り混じりながら話は展開していく。「かぐや姫の物語」にて、ともに飛翔をしつつも、結局はかぐや姫と共になれず、平凡な妻とともに日常へ戻る男の末路と、この小説の末路とが重なる。彼には創作の能力がなかったのか。愛を強く求め、身の回りを整えていたのだが、創作そのものに対して彼は命を売り渡さなかった。ダコタの文章は、簡潔ながら、唐突に強烈な「三行」にも満たない文章が突如たち現れて、その事実に圧倒される節がある。この小説もまた、その相当の展開があった。ダコタの自著伝である「文盲」を読まなくてはいけない。
 検査は15時過ぎに終わる。空腹だったので、駅前にあった日高屋へ入り、野菜炒め定食を食べる。電車に乗り、会社に戻る。仕事は集中できず。帰りにまた書店へ寄らなくては。神谷美恵子訳、マルクス・アウレーリウス著、岩波文庫の「自省録」が読みたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Twitter

自己紹介

ブログ アーカイブ

ページビューの合計

ラベル

こんな音楽つくってます