水曜日, 12月 23, 2009

降臨祭前(々)夜の思いつき

きょうの夜にあったキャンドルサービスでのピアノやら声楽の演奏中に、僕は家族とのクリスマスを過ごすのも、明日が最後になるかもしれないなと思って聴いていた。最近のテレビをつけながらパーティまがいのクリスマスではなく、聖誕祭らしいクリスマスを家族で一度おくってみたいなと思った。ギターでクリスマスソングをいくつか弾いて(牧人羊を The First Noel 103番・久しく待ちにし Veni (O come), Emmanuel 94番 あたり) 、自分のクリスマスに対する思いみたいものを話そうと思う。まあダメもとでも準備だけはしとこう。


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母は、「いい歳こいて家族でクリスマス会をする家庭なんてないよ」といい、世間でも、若い男女が愛を確かめあうロマンティックな日としてクリスマスが定着しつつあるのでしょう。僕の友達でも、家族とクリスマスケーキを食べるなんてうちはもういないです。でもこの歳まで家族とクリスマス会ができて良かったと思ってます。最近はテレビをつけながら豪華な食事をしてケーキを食べるだけの日になりつつありますが、僕にとって幼い頃からクリスマスは一年で一番特別な日でした。今日は僕にとってのクリスマスはどういうものかということを、簡単に話そうと思います。こうやって家族の前でスピーチすることは普通ないでしょうが、全員集まってのクリスマスは最後になるかもしれないと思ったので、こういう事をやってみてもいいと思った次第です。

幼い頃は、クリスマスソングのカセットテープを黒いカセットデッキで流しながら、クラッカーを鳴らし、豪華な食事をとり、夜二段ベッドでサンタクロースの絵本(サンタおじさんのいねむり )を読んでもらい、夜中にサンタから届くプレゼントにものすごく恋焦がれていました。翌朝、ふと目が覚めてプレゼントがあるのがものすごく嬉しかった、あんなにわくわくする事はなかったです。クリスマスの数日前もよくこのクリスマス当日の情景を夢にみたものです。

10代にはいったあたりでサンタクロースの幻想は過ぎ去りつつありましたが、クリスマスという魔法のような日、ノスタルジアな子供心を失うことが、次第に怖くなってきたのもありました。中学時代の自室の過剰なクリスマスの飾り付けなどは父からも呆れられていたことを覚えています。高校を過ぎ今現在も多少クリスマスの飾り付けをするのは、その名残であるのかもしれません。

クリスマスはそういう子供時代の夢の日であることが消えていき、ロマンティックな恋人の日であることに拗ねる友人と愚痴り合うようになって、次第に意味を見失っていきましたが、クリスマスの洋画をみたり、本来のクリスマスの意味を知るようになってからは、クリスマスを別の視点でみられるようになりました。

クリスマスと言うのは、本来イエスの誕生をお祝いする日です。また、ディケンズのクリスマスキャロルに代表されるように、自分の傲慢心を捨てて、貧しい人や世間の人々、自分の家族への愛情を思い出す日でもあるのでしょう。なかなかボランティアや慈善献金みたいなことをするのは無理ですが、家族や友人、社会との付き合い方を思い返し、その後に実際的な行動はしないまでも、クリスマスの夜は一度自分と向き合ったりもします。

そのきっかけが、ホーム・アローン4という映画の中で出てきた、フランクキャプラ監督の「素晴らしき哉、人生!」という古い映画です。僕の中ではある映画と並んでこの映画が一番好きな映画となっていて、数年前から毎年クリスマスイブの夜はこの映画をみるようにしています。主人公は好きな道へ進む兄弟や友人にコンプレックスを感じつつも誠意をもって田舎の仕事をしていたのに、すべてが裏目にでて絶望し、自殺をしようと思いつめます。しかし、バックトゥザフューチャーのように、とある老天使と一緒に自分が存在しない荒廃した過去をみたことで、自分の生きてきた意味を見出し立ち直る様を描く、冷たくも暖かい映画です。

これで話は終わりです。子供の頃からクリスマスのお祝いをもってくれたことに感謝しています。恐らく今後家族とクリスマスを祝うのは、来年で終りになるかと思い、寂しく思いますが、これからもいろいろな思い出のあるクリスマスをお互い大切な人して持っていけたらと思います。


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けっきょく、ギターだけ弾いておわりますた

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